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『Giorgio Morandi 1890-1964: Nothing Is More Abstract Than Reality』Renato Miracco(Skira)

Giorgio Morandi 1890-1964: Nothing Is More Abstract Than Reality

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「具象なのに抽象」

(また抽象です。)


 16日からニューヨーク・メトロポリタン美術館でジョルジョ・モランディ展がはじまった(12月14日まで)。モランディがすごいのか、特別展がすごいのかよくわからないが、作品を一同に集めることがこれほど大きな意味を持つ作家も珍しい。具象なのに限りなく抽象的、という不思議な画家である。

 1890年生まれ、1964年没のモランディはすでに生前から20世紀最大の画家のひとりとされていたが、美術館で他の作家のものとならべられると、まるきり地味で目立たない。なまじ「上手」とか「きれい」と誤解されてしまうところが、現代美術としては損である。前回とりあげたポロックの作品が、「醜悪」かと見まごうほどの強烈で破壊的なエゴのおかげで、どの美術館に置かれても「オレ、オレ、オレ、」と場を独占するような声高さを発散するのに対し、モランディの作品は「いやいや、私なんぞつまらんものですから」と引きこもりがちである。

 どうやら本人の人柄にもそういうところがあったらしい。3人の女兄弟とアパートを共有し、ごくたまにフィレンツェやローマに行く以外は、ほとんどボローニャを出ない。画家として確立した名声にもかかわらず、派手な交際もなし。わたしゃ、ただの美術の先生ですから、と謙遜し、インタビューも生前に二回受けたのみ。

 しかし、そういう中から「ほんとうに抽象的なのは、日常生活だ」というような感覚が生まれた。もともとモランディの作品は静物画中心。1910年代のモダニズム盛期には未来派に影響された時期もあったが、1940年代あたりから、後にモランディのトレードマークとして知られるようになる一連の作品が生まれてくる。つづけて見る価値があるのはそのあたりのものだ。

 たとえば 「静物」(1941)

 あるいは 「静物」(1949)

 あるいは 「静物」(1953)

こうした作品、まず目につくのは静謐さである。セザンヌの影響が大きかったことは画家本人が認めているが、尖った色を排除し、派手なコントラストや躍動感よりも、重なりずれるような渋い淡い色調でまとめた世界である。寡黙さと平安。秋の陽射しを連想する。

 と同時に、これもセザンヌと共通するのだが、モランディには形、それもかなりピュアな形への強い執着がある。目の前にあるのはごく日常的な瓶やコップやボトルに過ぎないのだが、モランディの目を通して私たちは、その向こうにある原型のようなもの、イデアのようなものを覗き見る。ふだんは見えないような、神々しくさえあるような何かが浮かび上がってくる。

 淡く、地味で、引きこもっているかと見えたモランディの寡黙さが、何とも言えない「まぶしさ」と二枚合わせになっているとわかるのはそういうときだ。モランディ作品のまぶしい不可視性は、薄い皮膜で覆われたような到達しがたさを感じさせ、これほどシンプルなのに、「まだ何か見ていないような気がする」とこちらに緊張を強いる。同じ静謐さでも、何でも許すような穏やかさや包容力にまとまるのではなく、むしろ、「しーーーっ」とぴりぴりしながら絶対的なものを探っている世界。

 一枚だけではわからない。モランディを見るとは、次また次と更新されていく「静物」に少しずつ慣らされてしまうことなのだ。そこでは幻惑されることと説得されることが、たいへん近い。私たちは何かを知るよりも、知ることを諦めるような境地に入っていく。見る者の、「なぜこうなのか?」という問いに対する答えは、2~7個くらいの物体がつくりあげる特有の空間リズムの中に確かにほの見えるのだが、それは確固とした揺るがない言葉として与えられるわけではなく、あくまで瞬間的なものとして提示され、すぐにまた流動的なプロセスに飲みこまれる。画家と画面との間に、あるいは私たちと画面との間に、絶えざる組み手の探り合いがある。

 それにしても、なぜ「形」なのだろう。あるいはなぜ「位置」なのか。心の居場所を探るのは誰にとっても難しいのだろうが、まるで心に形があるかのように錯覚する、という能力を私たちは持っている。モノがそこにあるのと同じようにして、心がそこにある。あるいはモノがそこにあるかのように、私たちはいる。「モノ扱いするな!」という苦情も一方にはあるが、モノと化すことによって救われるということだってありうる、ということなのかもしれない。

 今回のような特別展でとりわけはっきりするのは、ラベルを剥がし、限りなく原型に還元されたかと見える瓶やボトルを、執念深くアレンジしなおしては、驚くべき新境地に辿りついてみせるモランディの、ほとんど病的な持続力である。これほど同じような素材を使って、これほど毎回斬新であってみせるのは神業に近い。

 マーク・ロスコは、自分の作品を展示するときはひと部屋ぜんぶを使ってまとめて見せて欲しいと注文をつけたことで知られるが、モランディの「音」を聞くためにも、そういう特別なアレンジが必要な気がする。モランディ鑑賞には、モランディ・モードを用意したい。

 モランディの残した数少ない言葉の中から浮かぶのは、地味な生活者という自意識である。引きこもり、そぎ落とす。語らないことによってこそ語る、という姿勢ともつながる意識。ほんとにイタリア人かね?と言いたくなるが、むしろ、だからこそ、なのかもしれない。

 なお、メトロポリタン美術館のサイトでは、今回の特別展からの抜粋が見られる。


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