書評空間::紀伊國屋書店 KINOKUNIYA::BOOKLOG

プロの読み手による書評ブログ

飯田芳弘『忘却する戦後ヨーロッパ』(東京大学出版会)

Theme 8 忘れることで生まれるもの

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政治学は「過去の忘却」を考察してこなかった、それはおもに歴史学や文学が担ってきた、というのが意外だった。戦後のヨーロッパで、民主主義体制に移行するさいに独裁や内戦の過去を忘れる「忘却の政治」が行われたさまを本書は描き出す。
ただ忘れるのではない。恩赦による旧体制の温存、レジスタンス神話による記憶の上書き、ナチズムの強調によるファシズムの軽減。いわば積極的な忘却だ。
第二次世界大戦後のみではなく、70年代の独裁体制が終焉した南欧、89年以降の共産主義体制が崩壊した東欧での政治的忘却が論じられる。一国にとどまらず、民主化過程における忘却の重要なポイントが一望できる。
忘れたいという人々の願望も、政治的忘却を支えるものだっただろう。けれども読んでいて、「忘却の政治」の政治的である所以は、それが判断し選択できる忘却だということではないかと思った。
本のかたちで残された証言を読むとき、記憶と忘却の苛烈なせめぎあいを感じる。語れば前を向いて次に進めるとはかぎらず、語った後の新たな生は、違う厳しさを抱えたものになる。また、証言の背後には語られないままの言葉が沈殿しているだろう。記憶と忘却はコントロール不可能な形で個人の中で生きつづける。それは歴史や文学の領域なのだろうか。

みすず書房 鈴木英果・評)

ダニエル・ヘラー=ローゼン『エコラリアス』(みすず書房)

Theme 8 忘れることで生まれるもの

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Echolalias=谺(こだま)する言語、反響言語。それ自体としては姿を消し、忘れ去られた言語がテーマである。読者は10ヵ国語に通じたポリグロットの著者に誘われ、言語哲学、文学、神話、宗教学などさまざまな分野を横断しながら言葉の驚異の世界を巡る。
例えば、幼児の頃に発する雑音めいた喃語(なんご)。私たちは、成長の過程でこの喃語を次第に忘れることによって母国語を習得していくという。つまり、言語の獲得は忘却の上に成り立っているのである。そして喃語は消えたように見えても、Uh-ohのような英語圏で使われる動物の鳴き声のような感嘆詞にその音の痕跡を残す。失われたはずの音がエコーするのだ。
「消滅する言語」が危機感とともに語られてきた。話者を失い、死んでゆく少数言語を救わなくてはならない、と。しかし、この「言語の死」という生物学的な捉え方に著者は異議を唱える。言語は死ぬわけではない、誰もその死亡時刻は示せない。いくつもの言語が忘れられていくが、それらは時を超えて別の言語の中に反響しているのだ。本書を貫く強いメッセージである。
『エコラリアス』によって私たちは言語の本質とは何かを考えさせられる。そして、忘れることの豊かさをも知る。舌がないのに話せる少年の話など興味深い事例が満載の本書は、言葉についてだけでなく、とかく悪者にされがちな忘却という人間の営みについて考えたい人にも多くの知見をもたらすだろう。

東京大学出版会 斉藤美潮・評)

マシュー・レイノルズ『翻訳 訳すことのストラテジー』(白水社)

Theme 5 未知とのコミュニケーション

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「ブラック・ライヴズ・マター(Black lives matter)」の訳をめぐり「黒人の命も大事」なのか「黒人の命は大事」なのか、議論があった。保守派のいう「すべての命が大事」とセットになるのはどちらかを考えはじめると、英語に対応しない「は/も」の区別が、訳す側の姿勢、世の中に自分のことばを向ける「戦略」を問うてくる。
語学知識だけで「正しい翻訳」にたどり着くことは難しい。本書も翻訳技術の解説書ではなく、翻訳という不思議を考えることに読者を誘い、コミュニケーションとは何かを異なる言葉を橋渡ししようとする「戦略」から考える、「翻訳論」の入門テキストだ。堅苦しい本ではない。マンガの翻訳や、普及が著しい機械翻訳多和田葉子ほか「翻訳」のあわいで活躍する作家など、興味深い話題が並ぶ。限られた紙幅に古今東西、硬軟両方が取り揃えられたなかでも「翻訳の政治」の指摘は、「翻訳論」がなぜいま人種問題やフェミニズムなどにおいて注目されているのか、その理由を納得させてくれる。
訳者は世界文学研究の俊英で、ナボコフの「自己翻訳」についての著作もある秋草俊一郎さんだが、語りかけるような文体、日本の読者のための読書案内、小ぶりでかわいい造本まで、本全体が「オックスフォード超短い入門シリーズ」の一冊である原著の極めて成功した「翻訳」だ。

東京大学出版会 後藤健介・評)

木村大治『見知らぬものと出会う』(東京大学出版会)

Theme 5 未知とのコミュニケーション

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正直なことをいえば、SFというジャンルがすこし苦手です。世界観の設定でさまざまな疑問が湧いてきて、作品に入り込むことができないことが原因ですが、その最たるものが、人知をはるかに超えた地球外生命体が実際に存在するとして、そんなものがそもそも人類などに関心を向ける(=コミュニケートする)ことなんてありうるのかなといった疑念です。疑念と書きましたが、これは、地球外生命体という「他なる者」に対する自分なりの敬意のあらわれであり、ささやかな倫理であるとも思っています。ただしそれは、「敬して遠ざける」といった類のものであることも否定しません。
対して本書は、そうした「他なる者(=「長い『投射』」としての「宇宙人」、「短い『投射』」としての身近な他者)」との相互行為=コミュニケーションの成立条件を、SF作品を導きの糸としながら、哲学、論理学、情報理論言語学社会学文化人類学、そして「宇宙人類学」等の多様なジャンルを横断しつつ、また、著者のフィールドワークの経験や身近なエピソードを交えながら明らかにしていきます。本書のもつ論理的で学術的な稠密さと、読み物としての面白さの共存は、たんに書物として良質のものであることを示すのみならず、「読者」という、著者にとってのファースト・コンタクトとなる相手に向けて「共在の枠」を生成させる試みであるかのようでもあります。それゆえ本書を通じてわれわれは、「コミュニケーション」という手垢にまみれただらしない言葉が失った、「ファースト・コンタクト」という緊張感を回復するのです。
SFに対する苦手意識は容易に克服されそうにありませんが、それでも、「他なる者」への志向性は放棄することなく、「接触にそなえたまえ」という呼びかけに対しては、つねに「はい」の姿勢でいたいと思うようになりました。

白水社 栗本麻央・評)

マージョリー・シェファー『胡椒 暴虐の世界史』(白水社)

Theme 3 一粒から拡がる世界の歴史

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対する『反穀物の人類史』が、古代の農業革命に直面した狩猟採集民は穀物の軛から何とかして逃れようとした、というお話なら、こちらは、時は大航海時代、欲にかられた貿易商人たちがピリッと辛い黒いダイヤを何としてでも追い求めようとした物語だ。
アラブ商人の独占を打ち破ったヨーロッパ人たちはいかにして、この商品を獲得し、莫大な冨を懐に入れようとしたのか、その巨大な欲望がなぜ植民地と帝国主義に帰結したのかが、興味深いエピソード満載で語られる。
エピソード自体を挙げるのは野暮なので本を買っていただくとして、一読して感嘆するのは、歴史は欲望が作るのだなあ、というあきれた諦観だ。
胡椒を買付に行ったのにいつのまにやら海賊に成り下がった(?)船乗りたち、胡椒船に便乗して聖なる教えを広めようとしたイエズス会士たち…。そうした胡椒の周囲をめぐる有象無象が歴史の大きな流れを形作っていく。そしてその行きつく先がイギリスとオランダの東インド会社だったわけだ。しかしそのイギリス東インド会社に奉職していたのが、あの自由主義者ジョン・スチュアート・ミルだったというのは、なんという歴史の皮肉か!
胡椒を切り口にヨーロッパの世界覇権を描ききった快著である。

みすず書房 中林久志・評)

ジェームズ・C・スコット『反穀物の人類史』(みすず書房)

Theme 3 一粒から拡がる世界の歴史

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本書のタイトルを目にして連想したのは、『サピエンス全史』にあった、本来人間は穀物食をするようにできてはいないという話だった。実際、本書で出会う数々の驚きのなかに、なぜ多くの地域で穀物が主食となったのかの答えもあった。
そもそも、人間が定住したのは農業のためではなく、狩猟採集生活に好適な場所だったからで、たとえばそれがメソポタミアのユーフラテス川河口付近だったのだ(この地域で現代も採集生活を送る人々については、セシジャー『湿原のアラブ人』がある)。農業は狩猟採集よりエネルギー効率が悪いので、できればやらずにすませたいものだった。しかも家畜との生活は新たな伝染病や寄生虫をもたらし、集団での定住は伝染病にたいして脆弱なので、実際に最初期の国家の多くは伝染病で崩壊したという話は、新型コロナウイルスに悩まされる現在、感慨深い。そしてなぜ、早くに国家が誕生し発展した地域の多くで人が穀物を主食としているかといえば、穀物は税として管理しやすいからなのだ。米や麦は一度に実るので徴税官の目をごまかせず、長期の貯蔵も可能。豆やイモのように、査察の前後に収穫したり、地中に隠したりできない。その徴税をはじめとする国家行政のために、文字はそもそも誕生した。メソポタミアではながらく文字は簿記のためにとどまり、文学や宗教文書の類が誕生したのは500年以上もたってからのことであったという。
食生活や農業や定住、国の成り立ちや本というものについて、先入観や価値観を大きく揺さぶられる、新型コロナの時代の読者にお勧めの一冊である。

白水社 糟谷泰子・評)

宇野重規『未来をはじめる』(東京大学出版会)

Theme 1 他者とともに生きる

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「誰でも、何でもいうことができる。だから、何をいいうるか、ではない。何をいいえないか、だ」。本書を読んで、この長田弘さんの詩を思い出しました(「魂は」『一日の終わりの詩集』みすず書房)。
正直、「お先真っ暗」な世の中です。いいことよりも悪いことの方が多いかもしれません(歳のせいか斜陽業界のせいか……)。さらに政治や経済の本をつくっていると、ますます暗く、深刻になります。そしてそんな本で書店は溢れています。
本書では、そうした本にありがちな「人への嫌悪や憎しみといった負の感情を……煽っていく傾向」は微塵もなく、「何をいいえないか」慎重に配慮しながら政治について語っています。また、「悲観的なことを言う方が知的である」という社会的気分を思想史という視角から見事に相対化しています。
本書はもともと高校での講義から生まれた本です。同じジャンルでは、加藤陽子『それでも、「日本人」は戦争を選んだ』(朝日出版社)が知られますが、大人の「学び直し」の側面もひとつの特長になっています。これに対して、本書は「生き直し」を読者に提案します。そうはいっても、それは上からの押し付けではなく、「弱いつながり」への着目や「切断」のすすめといった生き方の流儀です。コロナ禍を受けてますます納得の新・幸福論です。

白水社 竹園公一朗・評)