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『この風にトライ』上岡伸雄(集英社)

この風にトライ

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「実利を求めて」

 球技としてそれほど根づいていないわりに、なぜか熱血ドラマとなると定番。日本のラグビーは、学校系スポーツの中でもちょっと変わった位置を占めてきた。おそらく競技としての注目度が高いのは大学レベルだが、高校までは格闘技や陸上の選手だった人が大学に入ってラグビーに転向などというパタンも相変わらずあるようで、英才教育や専門化の進んでいる野球やサッカーとはやや事情が違う。どこか手作りというか、文字通り、泥臭さがつきまとう。

 そんな中で上岡伸雄の『この風にトライ』は、タイトルにはひねりがないし、有名な熱血ラグビードラマが参考文献にあがったりしていて、これは手の込んだパロディなのではないか?とつい身構えたくもなるのだが、必ずしもそうではないようだ。

 かつて名ラグビー選手として活躍した巨漢の通称アッシーは、小学校の国語の先生。得意技は宮澤賢治の音読で、まわりくどい理屈よりも、まずは脳と身体の一体化をめざすという。このアッシーが、受験を前にしてぴりぴりしつつあるクラスで発生する陰湿ないぢめなどの問題を、ラグビー教育を通して一気に解決していくという筋書きである。そこに語り手の父親の単身赴任問題がからんだりして、まとまりのいい物語に仕上がっている。

 そういえば、こういう小説を読むのは久しぶりだなあ、と筆者は思った。この雑音のなさ。この真っ直ぐさ。真っ直ぐといっても、語り手の少年が真っ直ぐであるとか、熱血ラグビー先生が真っ直ぐとかそういうことではない(いや、彼らが真っ直ぐであるのは間違いはないのだが…)。真っ直ぐというのは、ラグビーの普及とか、いぢめの廃絶といったテーマと、小説の言葉との関わり合いがたいへん「そのまま」というか、照れも衒いもないということである。

 果たして日本文学の歴史の中で、本格的な「ハウツー小説の時代」が隆盛を迎えた時代というのはあったのだろうか。何回か前に村山由佳の『ダブル・ファンタジー』を〈性の作法書〉として取り上げたときにも触れたが、英国などヨーロッパでは出版が文化として定着したとき、その圧倒的中心にあったのは「やり方」を教えてくれる本だった。お辞儀の仕方。挨拶の仕方。手紙の書き方。結婚相手の選び方。誘惑されたときの退け方。家庭料理のつくり方。家族が病気になったときの看病の仕方…。その延長上に、ジェイン・オースティンみたいに「結婚の方法」ばかりを題材に作品を書く小説家が現れた。イギリス小説の起源のひとつが、子女教育のための喩え話だった、などと言われるのもそのためだ。

 もちろん『この風にトライ』は必ずしもラグビーの「やり方」に特化した小説ではない。さりげなく「ループ」などという高度なテクニックが紹介されたりするが(小学生のタッチラグビーなのに!)、ラグビーの方法や技術よりは「ラグビーを好きになりましょうね」といった作家の意思の方が露出している。でも、これまた、「やり方」のひとつではないだろうか。この小説の最大の鍵となるのは、「触れる」という行為なのだが、そういう意味でも本書が目指すのは、ラグビーに触れ、その世界に足を踏み入れるための、イントロダクションのような役割である。

 つまり、ほとんどフィクションを読んでいる気がしないのである。フィクションというよりは、何だか現物を取引している実感がある。よく小説について言われる「生々しい」とか「リアリティがある」といった褒め言葉ともこれはちょっと違う。そのまま、なのである。現金なほど、そのままなのである。だから、かえって小説としての不自然さがあっても、それほど気にならない。

 齋藤美奈子の書評に見られたように、本書は批評家の間では必ずしも高い得点は稼がないのかもしれない。しかし、文学が読まれない、と文句ばかり言う人が多い時代にあって、こういう作品は着々と書かれ、着々と読まれていく。こういうふうにして、とにかく「実利」をしっかりと念頭に置きながらエピソードを語ることが、たとえストーリーが紋切り型に陥りがちだとしても、人々が物語とかかわる、その原型となってきたのは間違いない。日本文学の歴史の中でも、何もプロレタリア文学などということを言わなくても、そういう機運はつねにあったし今もある。

 日本語で「物語」というとき、そこには「型にはまった展開」という含みがある。九回裏の逆転ホームランが「劇的」なのは、まさにそれが型どおりの「劇」を演じているからだろう。野球にも、サッカーにも、バレーにも、テニスにも、そうした「劇」の素因はあるはずで、ラグビーにももちろんそれがある。サッカーから分化して二百年にもならないラグビーは、その試合風景はまさに縄文人による球の奪い合いさながらで、野蛮かつ原始的に見えるのだが、実際には審判による巧みなコントロールによってこそ試合の「旨味」や「劇」が作り出されている。審判を中心に、双方のチームの共同作業によって、好ゲームが演出されるのである。他の球技に比べると、パフォーマンス的、劇場的な側面はずっと強い。そういうラグビーの人工性と、この小説や、あるいはラグビーを題材としてこれまで書かれてきた熱血モノにある約束事らしさとは合い通ずるものではないだろうか。背後にある「実」を意識しながらの対決であり、フィクションなのである。それを爛熟した文化の顕れとみるか、それとも、制度の未発達とみるか。いずれにしても、隠し球なんていう油断もすきもないことが、プロのレベルで本気で行われる野球とは大違いだ。

 著者はデ・リーロなどの翻訳で知られる英米文学者。訳文には定評がある。学者が書く小説だからこういう傾向なのかどうか、筆者には判断つかないが、案外、文学の行く末を占うには格好の素材かもしれない。

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