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『ctの深い川の町』岡崎祥久(講談社)

ctの深い川の町

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「不機嫌の作法」

 岡崎祥久のデビュー作『秒速10センチの越冬』はいわゆる貧乏小説だった。主人公の青年は仕事がない。就職面接に行ってもいつも落とされる。面接のとき、相手の担当者に「私のどのへんがだめなんでしょう?」などと訊くシーンは、なかなかのものだった。

貧乏。もてない。楽しくない。このあたりは、長らく小説世界の基本であった。近年、フリーター文化と小説執筆とは急接近しているが、以前から日本の近代小説の主流は、マイナス設定だった。ネガティヴ・サブライムと言ってもいい(崇高なる駄目さ!)。

 『ctの深い川』もまた、貧乏小説である。都会生活に見切りをつけて急行電車で40分の地元に戻ることにした主人公なのだが、引越荷物一式を赤帽トラックの炎上事故で失い、まったくの身一つでタクシー会社の寮にころがりこむ。皮肉にもこの会社は「ノーブル交通」といって、運転手はみな、フリルのついたシャツを着せられエセ召使い風の高級サービスにいそしんでいる。

 ただ、この主人公、貧乏なわりにあまりじたばたしていない。悲しんだり、苦しんだり、騒いだりしない。もちろん喜んだり、盛り上がったり、陶酔したりもしない。貧乏に馴染んでしまっているのだ。泰然自若というか、体温が低いというか、低く安定しているように見える。ここまで安定していると、物語が始まらないんじゃないか、と心配になる。

 とくに目立つのが、どたばた風でぷちギャグ満載の舞台設定とそぐわないかとも見える一人称の「わたし」の使用である。「俺」でも「僕」でも「ボク」でもなく、淡々とした「わたし」が、ありえなさ寸前の珍妙な世界の中心にいる。発明家を称する同僚の勝俣とのやり取りは、こんな感じになる。

「そいつは何だ?」わたしは尋ねた。「何かおれに関係があるのか?」

「これね、タイムマシンです」

「あっそ。あんたさ、遅くなるといけないからもう帰れよ。今日はどうもご苦労さん」

「まだ真っ昼間ですよ」

 そう言って勝俣は、カールしたコードの一本をわたしに差し出した。先端を握っていろというのだった。ピリッと痺れたら成功です、過去でも未来でも自在に行き来できます――勝俣はそう言った。

 わたしがそのコードの先を握ったのは、タイムマシンなどありっこないと思っていたからだった。"茶筒"は上蓋が外れるようになっており、そこに数個のツマミとスイッチがついている。じゃあ行きますよ、と言って勝俣はスイッチを入れた。ピリッと痺れた。どうでしたかと訊くのでわたしは痺れたよと言った。じゃあ成功です。それだけ言って勝俣は機械を片づけ始めた。ここは未来なのか? それとも過去なのか? とわたしは尋ねた。

 かなり妙な展開なのだが、SFではないし、不条理系とも違う。それよりも、会話では「おれ」と言う主人公が、地の文では「わたし」に豹変するあたりが気になる。語り手ははじめから、舞台から降りているのか。ただ、続きを読むと、何となくこの体温の低さの目指すところも見えてくる。

「じつはね、これ、"愛取り外し機械"なんです」勝俣は照れ臭そうに言った。「だってヤじゃないですか? 女の人を見るたびに、やることになれるかな、とか考えるのって。僕ね、ずっと思ってたんですよ、なんでこんなに生きにくいのかって。そうしたら、それが原因だったんです。だから僕ね、この世にはもう僕とやってくれる女はいない、って決めることにしたんです。決めただけじゃ弱いから、これはもう取り外しちゃうしかないって。それでこの機械を発明したんです。今にきっと特許が取れますから。申請の準備も進めてます」

「……」

「なんだかこう、自由になれた感じがするでしょ? しない?」

「そうだな、うん、悪くないよ」

「でがしょ?」

「……」

この力の抜けた感じ。カクッと関節がはずれるような、行き場のない馬鹿馬鹿しさが、岡崎祥久の持ち味なんだろうなという気がする。力んで球を遠くに飛ばそうとするより、バントの構えからバットを引いてキャッチャーのパスボールを誘うような筆致である。

 こういう体質は、どのような物語に向くのか。この小説では、タクシーの運転が「釣り」に喩えられたりする。たしかに釣り人特有の、静かなところにひとりでいます、と言わんばかりの想念のようなものが、ふっと表れては消える。

 わたしはしばらく無為に市街地を走りつづけた。わたしの車を止めようとする客人には行き会わなかった。客人が"快晴"だ。"晴れ"の空に浮かぶ雲よりも少ない。今日は誰もが、ドアが自動で開いてスピードを出すタクシーに乗りたがっているのだろうか。あるいは〈ノーブル交通〉が(それともこのわたしが?)敬遠されているのかだろうか。

自動ドアを使わず、低速度で走ることを売り物にする「ノーブル交通」。それは、世界の水面に立ち現れるかすかなさざめきをじっと待っているような、釣り人めいた書き手としての岡崎の自画像なのだ。この作家が得意とするのは、2~3行分くらいの思いつきに出遭っては、また淡々と先に進んでいくというやり方である。そのせいもあってか、主人公の運転するタクシーには「ねえ、運転手さん、人をダメにするのはさ、苦しみだと思う? それとも愉しみだと思う?」などと問うような客が乗ってきたりもするのだ。

 こうしたさざなみめいた短い問いやアフォリズムに依存する語りというと、ちらっと初期村上春樹を思い出したりもする。もてないと自称していたわりに、唐突に女と出逢って理由もなしに仲良くなったりするあたりにも何となく村上臭がある。しかし、その世捨て人めいた不機嫌さとは裏腹に、岡崎の会話はたいへん小気味よい。アフォリズムに凝り固まりつつある世界を、うまくほぐしてくれる。ときおり怖いような不機嫌や絶望がのぞくのに、案外に軽快な仕上がりになっている。乗り心地の良いタクシーのように。

 この作品、岡崎の最高傑作ではないだろうし、低空飛行を得意とする岡崎の中でも地味な方に属するものかもしれないが、それでもこれだけやれるというあたりが著者の力だと思う。深刻な場面の一歩手前で間を外す脱力感はあいかわらず冴えている。最後に、作品の終わり近くから一箇所引用しておこう。主人公の中田に宛てて、女が謎の書き置きを残して去る、という場面である。この書き置きをめぐって同僚の茂原さんとかわされる会話がなかなかいい。

 茂原さんは"未処理"と書かれたトレーの中から、メモ書きを取り出した。

「ええっと、うむ」茂原さんは咳払いをした。「わたしは広すぎる舞台におびえた踊り子でした」

「…踊り子、ですか」

「あの子が言ったんだ、おれじゃないよ」

「わかってますけど、べつに裏声を使わなくても…」

「やっぱりさ、あんた自分で読んでくれないかな。おれは恥ずかしいや」

 そう言うと茂原さんはメモ書きをわたしに渡した。そこにはこう書かれていた――

わたしは広すぎる舞台におびえた踊り子でした。
でもステージに戻ります。
間違っていないけれど、正しいわけでもない道を
これ以上進むのはよします。
中田さんのおかげです。
どうもありがとうございました。

「意味がよくわからないんですけど…」
「おれにもわからないよ」
「彼女は、その、バレリーナか何かだったんですか?」
「うんにゃ、元々はレースドライバーだっていう話だったけどな」
「何が私のおかげなんですか?」
「そんなこと知らないよぉ。彼女と何かあったんじゃないの?」
「…いえ、べつに何も。これ、もらっていいですか?」
「え? なんでよ」
「いや、よく吟味してみたいので」
「でもそれ、おれの字だよ。それ持ってって、あんたジッと見るわけ?」
「あ、じゃあ書き写します」

このあと、もう少しじわっとくるような場面があって、小説はそれなりの結末を迎えるのだが、やはり光っているのは「でもそれ、おれの字だよ。それ持ってって、あんたジッと見るわけ?」というような一節だ。こういうシーンを書いてしまえる不機嫌は良い意味で健康だなあと思うし、これくらいの馬鹿馬鹿しさで、つい、くすっと笑うのは、楽しいものだ。

 ちなみにctとは「タクシー」のことだそうです。


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