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『真昼なのに昏い部屋』江國香織(講談社)

真昼なのに昏い部屋

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「擬態語のお行儀」

 思わず擬態語に目がとまる小説である。冒頭近くにはこんな一節がある。

 母親らしい女性の押す乳母車とすれちがい、ジョーンズさんは目を細めました。赤ん坊が好きなわけではなく、赤ん坊がきちんとケアされているのを見るのが好きなのです。乳母車には青と白の縞の幌がついていて、はちはち肥った赤ん坊の他に、小さな羊のぬいぐるみが乗っていました。

「はちはち肥った赤ん坊」なんて言い方、筆者は生まれてはじめて見た。でも、すごくいい感じである。まだある。

ほうとうは、美弥子さんはそのお菓子があまり好きではありませんでした。さつま芋とかゆで玉子とか栗とか、もくもくした食べものは胸につかえるような気がするのです。

「もくもくした食べもの」なんて、やっぱり聞いたことがない。ほかにも美弥子さんがうちの中のことを「ごたごたしてるの」と言ったり、庭から玄関にサンダルで出てくる美弥子さんが玉砂利を「ぱちぱちざくざく」いわせてきたり。

 『文章読本』の谷崎潤一郎なら、「そんな幼稚な言い方をしてはいけません」と注意しそうな言葉の使い方である。でも、そこがかえっていい。幼稚で、おとなの言葉になりきっていない、そこから言葉以前の、〝音〟が聞こえてくる。この人達はどうやら言葉以前のところに足を踏み入れているようなのだ。

 擬態語そのものはそんなにたくさん使われているわけではないが、言葉で上手に遊ぶのをゆるす気配がこの小説にはある。地の文は童話風の〝ですます調〟で、だから丁寧で、おっとりしていて、まどろっこしいほど正確に言葉を使おうとする語りの身振りが目につくのだが、丁寧でゆっくりで正確だからこそかえって道を踏み外してしまうかもしれないような、妙な境地というものがある。

 それを身をもって示すのが主人公の美弥子さん。この人はすごくお行儀が良くて、いい人で、誠実で、でもときに理性で整理されきらない感覚を、そのまま生きてしまうこともできる人なのである。食べものが「もくもくした」なんて感ずることができるのは、実は日常の言葉にどっぷり使った人ではない。日常からちょっとずれていて、言葉の使い方も素人みたいで…だから相手の言葉やジェスチャーにも始終敏感で、ときには違和感を覚えたり、発見をしたり。それで、ああ、そうか、と思う。

 外国人なのである。主人公の美弥子さんの本質は、外国人。だからこそ、このひとはこんなにお行儀よくしようとしていた。型に合わせようとしていた。彼女にとって、日本語は外国語なのだ。実際、この小説のもうひとりの主人公は紛れもない外国人なのである。ジョーンズさんは、知的で日本語のうまいアメリカ人。大学で講義をしていないときは短パンにビーチサンダルみたいな恰好で出歩く。谷崎の『陰影礼賛』に影響を受け、日当たりの悪い古いアパートに住み、その暗がりで「電気をつけてしまうと、途端に味けなくなるんです」などとつぶやいている。その部屋には「暗がりにしか生息できない、目に見えないものたちがいて、あかるくすると、そいつらが逃げ出してしまう」そうだ。なんかいかにもインテリっぽい。バーボンの銘柄をわざわざ日本語で「野生の七面鳥」などと呼び、寿司屋に足繁く通う。まあ、日本によくいるタイプのアメリカ人かもしれない。

 でも、「いるよなあ、こういうアメリカ人」では終わらせないところが江國香織の技。そのあたりを堪能したい。このジョーンズさん、「フィールドワーク」と称して会社社長の奥さんである美弥子さんを散歩に連れ出す。散歩がお茶になる。そして、お茶がこんどは銭湯! 「週刊現代」連載とのことなので、こうした展開に〝おやじ〟の夢想の反映を見る人もいるかもしれないが、そんなことよりも大事なのは、この小説のほんとうの〝外国人〟である美弥子さんの、その外国人らしさを、〝ニセ外国人〟のジョーンズさんがだんだん開拓していく手つきである。何というか、うそっぽいほど丁寧でまわりくどくもあるけれど、おかげで振る舞いも言葉もぱりっとまぶしく輝いて見える。

 もとをただせば、どれもこれも語り手が仕組んだことである。すごくおせっかいというか、いじりたがり屋の語り手なのである。人物たちの頭越しに話を進めることもしばしばで、人物が言わなかったことや、しなかったことまで勝手にネタにしてしまう。でも、このおせっかいな語り手の、やさしい介入に甘やかされている人物たちの、その自立しきらない、ぬくぬくと保護されたような描かれ方が実に楽しい。ストーリーが佳境に入ったところ、美弥子さんがはじめてジョーンズさんの家に泊まった朝に、こんなひとコマがある。

パジャマ姿のジョーンズさんを、美弥子さんは男っぽいと思いました。あまりじろじろ見るわけにはいきませんから、視線は頭部に据えて話しましたけれど、この人パジャマが似合うわ、というのが、偽らざる感想でした。そして、急いで浩さんのパジャマ姿を思いだそうと努めました。そうすべきだと思ったのです。ちゃんと思い出せましたので、美弥子さんはほっとします。大丈夫、私はひろちゃんのパジャマ姿も、とても好きだわ。

美弥子さんは、これから道ならぬ恋に走るところなのである。でも、ジョーンズさんに見とれつつも、旦那の「ひろちゃん」に未練があるのか、あるいは、未練があると信じようとしているのか。微妙な位置だ。そこを、よくまあ、上手にいじくったものである。よりによって「パジャマ姿」とは…。もちろん、美弥子さんにも、こんなふうにちょっかいを出されてしまう天然なところがあるのは間違いないが、大元にあるのは「丁寧さ」と「正確さ」とを通して表現される、違和感と心地良さとのくすぐったいような混じり合いである。人物たちが世界の中で、居心地がいいのか悪いのかわからないまま、もぞもぞしている。語り手がそこを突っつくのである。

 著者の腕前を持ってすれば、これくらいさらっと書けてしまうのだろうなと思わせるストーリーである。母国で居心地の悪い思いをしてきたアメリカ人が日本にかぶれ、住み着き、日本の人妻と恋をする。面倒くさいどろどろのエゴイスチックな恋ではない。芯はけっこう熱いけれども外側はきりっとした大人の恋愛。作品も一生懸命になりすぎないやわらかい筆致で、やさしく、おっとりとふたりの〝発展〟を語る。暴力的な展開もトリックもないし、特定のテーマへの執着もない。ほぼ予想通りに健やかに上り詰める。そして終わる。でも、とにかく、眩暈がするほどしなやかな語り口なのである。もちろん、ほんとうは細心の注意の払われた文章で、主人公の二人が日本語から遠く離れているように見せかけつつも、極上の日本語の世界を作りあげている、そんな語り手の言葉の操りぶりは見事というしかない。こんなことができるんだ、日本語で、という嬉しい気持ちで一杯になる。最近の日本語の小説は幼稚で、などと見当外れのことを言っていた作家がいたが、こんなふうに〝幼さ〟を利用できるところがいい。まさに堂々と誇れる日本語の世界ではないだろうか。

  

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