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『潜水調査船が観た深海生物 — 深海生物研究の現在』藤倉克則/奥谷喬司 (東海大学出版会)

潜水調査船が観た深海生物 — 深海生物研究の現在

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 私事で恐縮ですが、このたび、新刊を出しました。「海に降る」(朱野帰子/幻冬舎)。女性初の有人調査潜水船パイロットを目指す主人公が海に棲む未確認巨大生物を探しに行く、という深海冒険小説です。物語の舞台は国内随一の海洋研究機関、独立行政法人海洋研究開発機構JAMSTEC)。今井さんが書評を書かれた「生命はなぜ生まれたのか―地球生物の起源の謎に迫る」の著者、高井研さんも在籍している機関です。なぜこんな小説を書いたかというと、それは単純に、深海の世界が書きたかったから。それだけなのです。

 そんな私が今日、全国の深海生物ファンの皆様にご紹介する本は、JAMSTECが出版した、我が国初の深海生態図鑑です。7,140円(税込)です。

「えっ、図鑑に7,000円も出せないよ」と思った方、お帰りください。むしろこれで7,140円は安いのです。高い、と思った時点であなたは真の深海生物ファンではないのでは? メンダコを一目見たいと沼津港深海水族館に遠路はるばる足を運ぶような、そんな人であれば必ず、この本に値段以上の価値を見いだすことでしょう。刊行されたのは2008年とやや古いですが、国内でこれを凌駕する深海生物の図鑑はまだ発売されていませんから、買っておいて損はないと思います。

 それからさっき「えっ、図鑑に7,000円も出せないよ」と思った方、お帰りくださいとか言っておいてナンですが、ちょっと戻ってきてください。まずは入門編として最適な「深海生物ファイル—あなたの知らない暗黒世界の住人たち」(1,699円)とか、写真がとにかく美しい「深海のフシギな生きもの—水深11000メートルまでの美しき魔物たち」(1,365円)を購入してみてはいかがでしょう。どちらも、JAMSTECが関わって編まれた素晴らしい本です。しかし、あなたはすぐに物足りなくなるでしょう。これらに紹介されているのはいわゆる「アイドル深海生物」たち。深海生物の種のごくごく一部でしかありません。もっとたくさんの、もっとディープな生物を求めて、あなたは結局「潜水調査船が観た深海生物—深海生物研究の現在」に戻ってきてしまうでしょう。

 さて、ここから先は「7,000円なら安い」と思った方だけお読みください。あなたはすでに上の段落で紹介したような入門編書はすでに読み終わり、アイドル深海生物(リュウグウノツカイオオタルマワシメガマウス、ダイオウイカ、コウモリダコ、オオグチボヤ、ラブカなど、ビジュアル重視な生物たち)にも飽きてきた頃かもしれません。深海生物たちの栄養源が必ずしもマリンスノーだけでないことや、彼らの凄さは奇怪な外見だけにあるのではないということに気づきはじめた頃かもしれません。

「潜水調査船が観た深海生物—深海生物研究の現在」には、そんなあなたの貪欲な知的好奇心を十分に満たしてくれるコンテンツが満載です。掲載されている生物の写真は膨大で(それでも有人潜水調査船〈しんかい6500〉によって撮影されたもののごく一部だそうですが)、ハオリムシだけでも12種類、ナマコは20種類、私の好きな海綿は48種類も載っていました。中には「撮影されただけ」で名前も決まっていない生物もたくさんいて私たちの胸を無闇にドキドキさせてくれます。さらに世界トップレベルの研究者たちによる専門的な解説が、これでもかというほどの量載せられていて、彼らの深海生物学に賭ける熱い思いがダイレクトに伝わってくるのです。

(前略)テレビなど一般向けの記事には、シーラカンス、ダイオウイカチョウチンアンコウといった奇異な生物が取り上げられ、「深海生物とはこういう不思議な生物ばかり」という誤解も与えているのではないだろうかと危惧される。本書で取り上げた生物の映像はできるだけありのままの深海生物の姿を選択した。読者は深海生物の多くは浅海域の生物と姿形が類似していることに気づかれるであろう。しかしながら、彼らは深海に順応するために見た目ではわからない生態・生理機能を有しているはずである。(中略)広大な深海底や、またその上を覆う膨大な水塊中に「たくましく生きる」生命の謎を解き明かすことが深海生物学の使命ではなかろうか。〈あとがきより抜粋〉

 電車の中で読むには少しかさばりますが、仕事で疲れた時、人生に嫌気がさした時など、この図鑑を開くだけであなたの脳は、深海の闇の中へとずぶずぶと沈み、複雑に絡み合う生態系の神秘の連鎖に溶けこんでいけることでしょう。

 最後に「ああ、この図鑑なら持ってるよ」というあなた。私とお友達になってくれませんか。そして禁断の地下生命圏(深海のさらに下の海底のさらにその下に棲む超好熱性菌の世界)まで一緒に行きませんか? 残念ながらこの世界の図鑑はまだ発売されていませんが(何百種類ものバクテリアの写真が並ぶだけの図鑑になるでしょう)、真の深海生物ファンはそこまでいかないと、やはり駄目だと思うのです。


【追記(2013.1.18)】

このたび、加筆して写真をアップデートした第2版が出たそうです。新しくこの本を買う方はこちらを購入されたほうがいいかもしれません。すでに第1版を購入している真の深海生物ファンの皆さん…わかっていますね…もう一冊…買うのです…。

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