イワン・デニーソヴィチの一日/ソルジェニーツィン
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イワン・デニーソヴィチの一日
ソルジェニーツィン
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4/27/2013 0:30:46
文学部人文学科比較文学専修
3年生・男性
あなたが誰かに贈りたい本はありますか?その本の名前と著者名をお書きください。
その本をどんな人に贈りたいですか?
今、そこで、「人生って退屈だな」とかつぶやきだした全ての若者達
どんな内容の本ですか?簡単なあらすじや、設定などをお書きください。
シューホフは、すっかり満ちたりた気持で眠りに落ちた。きょう一日、彼はすごく幸運だった。営倉へもぶちこまれなかった。自分の班が《社生団》へもまわされなかった。昼飯のときはうまく粥をごまかせた。班長はパーセント計算をうまくやってくれた。楽しくブロック積みができた。鋸のかけらも身体検査で見つからなかった。晩にはツェーザリに稼がせてもらった。タバコも買えた。どうやら、病気にもならずにすんだ。
一日が、すこしも憂うつなところのない、ほとんど幸せとさえいえる一日がすぎ去ったのだ。(新潮文庫版の本文より)
あなたはその本と、どのようにして出会いましたか?
新潮文庫の棚を眺めていると、なんだか響きのいいタイトルの作品がある。しかも作者の名前もなんか格好いい。何となく手に取ってみる。
裏表紙の解説によると、どうもノーベル賞作家の代表作ということだ。そんなにぶ厚くもない。これは読んでみよう。
そんな、ありふれた出会いです。
その本を受け取った人に、どのように思ってほしいですか?
いや、俺は多分、シューホフみたいにはなれない。彼は些細な罪で極寒のシベリアの収容所に十年間もぶち込まれたのだ。僕は一日だって耐えられないだろう。なんせ寒いのが大嫌いだから。
退屈とは平和の裏返しである。苦しい世界に退屈なんてものは無い。苦しさと折り合いを付けながら、自分の人生を精一杯生きるしかないのだ。退屈じゃない世界は、地球上のあらゆるところに、そもそもこの日本のあらゆるところに沢山転がっているだろう。退屈は一つの恩寵だ。退屈する権利を与えられた人間はある意味じゃ、選ばれたごく一握りだ。
この小説は皮肉で書かれたものじゃない。糾弾で書かれたものでもない。ある一人の人間が、極寒の収容所でのある一日を幸せだと思ったという、ただその経過を描いただけの小説だ。シューホフみたいに生きられる人間なんてのは殆どいないだろうな。僕らに出来るのは、僕らに与えられたものの価値をもう一度見直すことぐらいだろう。僕らに与えられた日常は、収容所でもなければシベリアでもなかった。それだけでも僕らはシューロフよりきっと簡単に幸せを見出せる。僕らは不幸な(そして幸福な)境遇にあったシューロフのためにも、彼よりもしっかりと幸せを享受する義務がある。
だから、今、そこで、「人生って退屈だな」とかつぶやきだした全ての若者達。退屈が楽しめないとか抜かすなら、今すぐ飛行機で極寒のシベリアに行ってそこで十年間暮らしてきなさい。それが嫌なら、この小説を贈ってあげるから読みなさい。
少なくとも僕は退屈を楽しめるぐらいには幸福である。