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『世にも美しい日本語入門』<br>『トマシーナ』<br>『ヒトは本当にネコと話せるのか?』

世にも美しい日本語入門

トマシーナ

ヒトは本当にネコと話せるのか?
→紀伊國屋書店で購入

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BGM(Chick Corea/Expressions(1994))

「強いて言えば
 猫はノラに限る」

リビングに「ナショナルジオグラフィック」が無造作に置かれていて、そんな生活に憧れて、夜のとばりに少しの■■■を飲みながら、その日を終らせるのにベストなBGMで、それを1頁ずつめくりながらダウンライトにくつろぐ生活に憧れて、そんな生活も演技でないところまで行っても、ところが仕事というか業(ごう)というか性(さが)というか、そんなこんなに追われてennuiな時間も無くなり、子供も学校に入り、親も病院に入り、のような切実な時間に、定期購読をやめて10年以上が経つ。でも今夜の■■■には Larry & Lee(1995)か Sanborn の Straight to the Heart(1984)か、いや Chick Corea の Expressions(1994)がいいかもしれない。
「ユダは裏切り者ではなかった?」

それもそろそろいいかもしれない。

http://nng.nikkeibp.co.jp


「塚も動け 我泣く声は 秋の風」

芭蕉が金沢の弟子を訪ねて、その死を悼んで詠んだ句だそうです。


シャボン玉飛んだ

屋根まで飛んだ

屋根まで飛んで

こわれて消えた


シャボン玉消えた

飛ばずに消えた

生まれてすぐに

こわれて消えた


風々ふくな

シャボン玉飛ばそ


これは野口雨情が子供をわずか7日で亡くした時に作った詩だそうです。

・・・


「からたちの花が咲いたよ」も北原白秋で、安野光雅さんも藤原正彦さんも、 知っていることの尊さを惜しげもなく、そして知らない人は人生半分以上を損してるね、と裏でソフトに表現する。それ以上は言わなくても、あなたの生活ですよ、と。

きけ わだつみのこえ」は不朽の名著で、シェークスピアは4万語を駆使したとはいえ、広辞苑は23万語だそうで、森鴎外は数十万語を使ったというし、それにしても、あなたの生活が一番大切なので。


・・・

道を歩いていて誰かに見られているような気がすることがよくある。

じっとこちらを見て目を離さないネコはヒトを観察するプロで、下手するとこちらの心理まで読み取られてしまいそうで、ネコには頭があがらない、と岩合光昭氏は言います。


どんなネコが撮りたい?

岩合「抱えきれない大きなネコ」

好みの女性のタイプは?

岩合「その時に観た映画のヒロインだったりする」

生まれ変わるとしたら何になりたい?

岩合「生まれ変われない」


確かにダブッとしたネコが顔をつぶして寝ているのを見ると、この世もあながち捨てたもんじゃない、と思う。


しかしネコはヒトの暮らし方をよく見ています。

ネコとヒトの距離感というのは微妙なところがあって、これはヒトとヒトの距離感にも似ていて、イヌも可愛いのですが、その距離感に裏切られた時、例えば死んだ時の怖さを前もって感じます。ネコはある意味、初めから裏切られの距離感があって、死ぬ時は自らいなくなってくれます。そして、ああ逝ってしまったのかな、と何故か納得したりします。

私の実家では、ネコを飼ったことはないのですが、いまだに常時ネコが出入りしています。そして、ある茶トラのネコがいなくなって、しばらく経つとまた同じ模様で若返って現れました。

私の好きなパトリックマックグーハンが出た「トマシーナの3つの命 (1963)」という映画があって(当時ですと「三匹荒野をゆく」とか「フリッ パー」とか動物実写系、か「宇宙家族ロビンソン」の時代ですが)ネコは3度と言わず、9回位は生まれ変わる、いや何回だったか定かではありませんが、 とにかく子供の頃、しばらくすると全く同じ模様で生まれ変わって出てくるのを目の当たりにしてきました。チル(ネコの名前)が生まれ変わってハッピー(これもネコの名前)になったように。


納屋の屋根をめがけて子ネコがジャンプして、結果は見事失敗したらしく、岩合氏は見ていなかったふりをした、と。


うちは割と家族の写真とか、子供の写真とかを写真立てやフレームにいれて部屋にかざる方ですけど、その中に1枚だけ違う写真があって、それも何の変哲もないノラ猫の写真ですけど、私にとっては何とも、その時のことを思い出させる大切な1枚になっています。


あれはちょうど帰国の日、荷物もまとめ、あとは大家さんに挨拶して部屋を出るだけの準備を整え、でも大家さんに会うまでには30分くらい時間があって、最後の散歩のつもりで外に出た時でした。日曜日の朝は静かで、石畳の路地には路駐の車が並び、夏とはいえ、まだ風は涼しいくらいの朝、そういえば前の夜は軽く雨が降ったので、湿り気のある石畳でした。

外にはまだ誰も歩いている人もなく、日曜日もひっそりとスタートしていましたがその時、角を曲がると私の目の前に小柄なノラ猫がこちらを向いていました。

初めは私の方を見ていましたが、私に見られたことに気がついたのか、目を伏せて、それでも逃げる事もなく、逆に私の方にゆっくりゆっくりと近づいてきました。ここに引っ越して半年以上経ちますけど、確かにノラ猫は沢山横切りましたが、その間一度も見た事のないノラでした。でもどこかで見た事があったのかなあ?いや、前世かどこかで会った事があったのかもしれないなあ、と、伏せ目がちな彼女が気になります。

その猫は、私の前2メートル位のところで歩くポーズを止め、しばらくそのままじっとしていました。当時私は休みとなると銀塩のカメラを持って散歩に出たもので、いつもの癖で、その時もまたカメラを持っていまして、きっと最後の散歩の記念に何か写真でも撮ろうと思っていたのだと思います。

そのノラ猫は、私を撮って下さい、と言うかのように目を伏せたまま、そこにたたずみ、私はさっそくカメラを向けると、長いシッポをキューと空にのばして、そしてしっぽの先の方だけを少し曲げて、気持ちを込めてポーズを取りました。

ノラ猫でも一期一会ということをよく分かっています。

いや、ノラ猫だからこそ、ですね。


強いて言えば、猫はノラに限る(徳大寺有垣氏)


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