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『東京骨灰紀行』小沢信男(筑摩書房)

東京骨灰紀行

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「過去の死者たちを慰霊することが未来を開く」

 畏怖すべき傑作である。私のような無知・無粋な人間に本書を書評する資格があるのか、何度も躊躇してしまったほどだ。いや、別に難しい本というわけではない。いま流行りの、東京の歴史を訪ねての、街歩き本の一冊といってもよいだろう。文章も講談調とでもいうのか、ぶらぶらと歩きながら街の様子を軽快に語っていく感じで、いたって平明である。訪問する先は、両国回向院、小伝馬町牢屋敷跡、小塚原の刑場跡、谷中墓地、多摩霊園、東京都慰霊堂など、東京のあちこちに建てられた、死者を慰霊するための碑、供養塔、墓地など。有名人の墓地よりは、火事、震災、空襲の被災者、刑場の処刑者、遊女など無名の死者たちの慰霊碑を辿っていくところに本書の魅力がある。東京という大都市の歴史を、無数の無残な死者たちの側から見直そうというのだ。

 のっけの「ぶらり両国」から、私は打ちのめされた。まず著者は、両国駅近く、隅田川河畔の回向院を訪ねて、明暦三年(1657)に起きた、焼死十万七千人といわれる大火の慰霊塔の前にやってくる。この火事の(身元や身寄りのわからない)焼死者をまとめて慰霊するために同年、隅田川の東側に開かれたのが、他ならぬこの回向院なのだ。その2年後には、この火事のときには橋がなかったために大勢の溺死者を出ししてしまったことを教訓として隅田川に両国橋が(回向院のすぐ先に)架けられ、その周辺に見世物小屋、旅籠、飲食店が立ち並び、春は相撲、夏は花火で賑わうようになったという。なるほど火事の被災者の霊を慰める場所から江戸の芸能や賑わいは生まれ、発展して行ったのか、と、無知な私はそれだけですっかり感心するのだが、それだけでは終わらないのが本書のすごさだ。

 著者は、この明暦大火の慰霊碑の横に回って、石碑に刻まれた長い漢文の(いまや薄れた)文字を丹念に拾って写していく。「且貧窮下賤・・・・・・諸霊魂等」、「繋囚牢獄病患・・・・・・諸精霊等」、「捨市殃罰殺害・・・・・・霊魂等」と。そしてこう感想を記す。「写しとりながらたじたじとなる。大火の焼死溺死者のみならず、この江戸城下で行き倒れ、牢にぶちこまれ、殺し殺され、ろくでもない死にざまの連中すべてを、いっそまとめてひきうけるぞ、という大慈悲心の碑なのだな。」(9頁)つまりこの回向院の碑は、単に明暦大火の慰霊碑というわけではなく、江戸という都市社会から打ち捨てられたさまざまな無名の死者たち(無縁仏)をすべて慰霊する碑だったのだ(建立は大火の18年後)。じっさい著者はさらにこの碑の周囲を歩いて、安政地震1855年)の供養塔、回船問屋が建立した海上溺死者のための追善供養塔、牢死者・刑死者のための供養塔、水子供養や動物供養塔までもが狭いスペースに立ち並んでいるのを次々と見出していく。たったそれだけのことで、私には、現在のイメージ消費都市・東京が、無名の死者たちが埋められた場所としてまったく違った相貌で見えてくる。

 

 こうした無名の死者たちへの著者のやさしい視線は、江戸時代に吉原の遊女たちが2万5千体も投げ込まれたという千住・浄閑寺の「吉原総慰霊塔」や、頻発する交通事故死者たちを悼むために1969年に築地・本願寺に建てられた「陸上交通殉難者追悼之碑」や、明治期の行路病者の引き受け所「養育院」の無縁の死者たち3,672名を弔った谷中墓地の「東京市養育院義葬」など、東京の裏の歴史を見せてくれるような慰霊碑をあちこちに見出していく。だが、そのような過去の死者たちへの視線は、決して過去へのノスタルジックな思いに浸っているというわけではない。反対に著者は、いかに過去の死者たちを悼むかが、未来の私たちの社会を形作っていくと考えているようなのだ。だから彼はどの慰霊碑を見るときも、それらがいつ、誰によって、どのように建立され、どのように保存されてきたかという観察を怠ろうとはしない。だから本書は無名の死者たちの歴史というより、その死者たちを慰霊してきた都市の歴史になっている。

 その著者の意思を最も直接的に教えてくれるのが、本書のなかにいささか違ったトーンを持ち込んでいる、地下鉄サリン事件をめぐる築地・聖路加国際病院のエピソードである。地下鉄サリン事件による死者が12人で済んだのは、実はこの聖路加国際病院の尋常でない救出活動があったからだと言う。一歩間違えれば死者数百人という可能性もあったのだ。いかにそれが防げたのか。最も多くの被害者が出たのが、秋葉原駅サリンを撒かれ、小伝馬町駅ではホームに袋が蹴りだされ、築地駅(病院の最寄駅)でようやく止まった日比谷線の中目黒行き電車(全被災者5,510名のうち2,475名)だった。この電車の大勢の被災者を院長の命令の下に迅速に受け入れ(640名)、他のすべての診療を中止して1000人以上の職員で治療にあたったのが、この聖路加国際病院だった。実はその3年前に新館を建てたとき、こういう非常災害時に大勢の患者を一度に治療できるように、酸素吸入装置を据え付けた礼拝堂を臨時治療所用に作ってあったのだ。そしてそこに、松本サリン事件の治療に当たった医師が、テレビで事件の様子を見て、被災者の症状がサリン中毒の症状と酷似していることを知らせてくるという幸運が重なったために、奇跡的に、原因不明のままサリン解毒剤を使った治療が可能になって多くの命が救われた(この病院での死者は1名のみ)。

 

 なぜそんな礼拝堂を作ってあったのか。それは院長・日野原重明が過去の苦い経験にこだわっていたからである。1945年3月10日の東京大空襲のとき、33歳の内科医だった日野原は数多の罹災者たちに満足な治療ができないまま死なれて悔しい思いをした。だから新館建築のとき周囲の反対を押し切ってまで、災害時のための治療スペースを礼拝堂として作っておく案を押し通した。つまり、日野原一人だけ過去のほうを向いて、東京大空襲という過去の死者たちを悼み続けていたために、多くの人々の命を救い、私たちの社会に未来をもたらしたのだ。いわば、聖路加国際病院の11階建ての新館は、東京大空襲の巨大な慰霊塔として建てられていた。いやこれは言い過ぎなのだろうけれど、そして著者がそう言っているわけでもないのだけれど、この本を読んだ私はもうそうとしか見えない・・・

 

 本書を読みながら、私はしきりとベンヤミンの「歴史の概念について」を思い出した。「かつて在りし諸世代と私たちの世代とのあいだには、ある秘密の約束が存在していることになる。(中略)だとすれば、私たちに先行したどの世代ともひとしく、私たちにもかすかなメシア的な力が付与されており、過去にはこの力の働きを要求する権利があるのだ。この要求を生半可に片づけるわけにはいかない。」(『ベンヤミン・コレクション 1近代の意味』ちくま学芸文庫、646頁)著者・小沢信男は、まさにその過去の死者たちの要求するメシア的な力を、都市の片隅に忘れられた慰霊碑を訪ね歩き、お参りすることを通して、この社会に立ち上らせようとしている。死者とともにある社会を想像的に作り出そうとしている。・・・21世紀の東京をベンヤミンのように歩き、記述する書き手がいたことを、いまはただ驚きとともに喜びたい。


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