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『けい子ちゃんのゆかた』庄野潤三(新潮社)

けい子ちゃんのゆかた

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「日常を描く、日常を考える」

2009年9月21日、庄野潤三は亡くなった。享年88。はかったかのようなタイミングで翌月刊行されたのが、『けい子ちゃんのゆかた』の文庫版(新潮文庫)である。

この作品は2004年に文芸誌に連載され、翌春に単行本にまとめられた。庄野自身のあとがきによれば、子どもたちの巣立ったあとに残された老夫婦の晩年を描く一連の作品群のひとつである。熱心なファンのあいだで「晩年シリーズ」とよばれるこのシリーズは、『貝がらと海の音』(連載1995年、単行本1996年)に始まるのだと、これも庄野自身がしばしば書いているから、本作品は結果的にそのシリーズ最終のひとつ前となった作品だといえる。もっとも見方によっては、『ザボンの花』(連載1955年、単行本1956年)から連綿とつづく、作家自身とその家族に直接取材した作品群を一本の大河ととらえることもできる。半世紀をゆうに越える庄野の文学人生の掉尾を飾る一作だといっても大げさではない。

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平易な言葉と表現で書かれたこの作品は、しかし内容をかいつまんで紹介するのがひどくむずかしい。他の多くの庄野作品と同様、粗筋というものがないからだ。描かれているのは、自身がモデルとおもわれる「山の上の老夫婦」の日常生活の細部につぐ細部である。

作家が自身の日常を題材にした小説は、一般には私小説と区分されるだろう。庄野もまた、戦後文学史のなかでは第三の新人に分類され、私小説の系譜に位置づけられることが多い。庄野自身、私小説的なものを擁護する文章を著したこともある。だが、私小説の大半が日常のなかに隠蔽された非日常の告白という側面をもっていたのだとすれば、庄野の書くものはそれと似て非なるものだった。かれの関心はつねに日常の日常性そのものに向けられていたからだ。

「日常」は、庄野がその文学人生をかけて格闘しつづけてきた課題にほかならない。より詳しくいえば、日常の日常性を理念的に再構築してみせることが、庄野の文学的課題だった。

たとえばこの『けい子ちゃんのゆかた』は、予備知識をもたない読者が書名だけをみるならば、あるいはエロティックな内容のものかと想像するかもしれない。ところがその手の要素は、庄野の作品世界にはまったく登場しない。エロスや情念といった類の要素は慎重かつ徹底して排除されている。このことは、庄野の作品世界を貫徹する顕著な特徴である。

「けい子ちゃん」とは、作中小学五年生の孫娘のことだ。とりあげられるのは、孫娘の成長ぶりや、近所に暮らす市井のひとびととの心温まる交歓や夕食後に夫婦でハーモニカを吹くといった日常を織りなすさまざまな日常的実践の「くりかえし」である。そのようすを、庭の木々やそこにやってくる野鳥の姿と交差させることで、老夫婦の晩年を穏やかな日だまりのような光景として描きだそうとしている。

そこでは、ほんらい人間が不可避にかかえながらも社会的に抑圧され、それゆえに通常のブンガクが好んでとりあげてきた暗い側面はきれいさっぱり拭い去られている。だからここに展開されるのは、いわゆる私小説的なものでありながら、同時にそこからもっとも遠く離れたタイプの世界でもあった。庄野作品の「日常」とは、理念にもとづいて世界を再構築するという庄野の意志をどこまでも押しとおしてゆく様相なのである。そのありようは、呵責なきまでに徹底されており、そのため表面上の穏和な相貌に相反して、どこか尋常ならざる迫力──異様さ、といいかえてもよい──を強く印象づける。

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いうまでもなく、たとえ作家が自身の経験に取材して執筆したものであったとしても、作家の生活世界とテクスト内部の表象世界とはそれぞれ別の水準にあるものとして扱われなければならない。ところが私小説というジャンルにおいては、少々事情が異なる。両者の素朴な混同こそが、著者と読者とテクストによって織りなされる読書共同体の枢軸であり、その維持に不可欠な滋養分だからである。

庄野の晩年シリーズもその例外ではない。江國香織のような作家がリスペクトを表明し、若い女性たちからは理想の老年像を投影されて、静かな人気を集めた。川本三郎が指摘しているように、そのことは庄野の長い文学人生の掉尾を幸福で満足のゆくものとして飾ったたかもしれない。

しかし庄野のばあい、作家の実生活と作品世界とは、たんに読書共同体における素朴な混同では片づけられない側面がある。ある意味では、両者はたしかに照応関係をなしていたのだ。それは、庄野にとって「日常」とは、かれ自身の理念によって規定され、再制作されるべきものであったからだ。庄野はおそらくは、両者の、つまり実際の生活世界と作品世界という二つの世界あいだに不可避に生起する齟齬を、理念でもって調停し、埋めあわせようとしてきたのではあるまいか。

その傍証を、たとえば『けい子ちゃんのゆかた』文庫版の巻末に収められている、庄野の長女夏子さんによる解説に綴られる、庄野最晩年の介護の日々の記述の仕方に認めることもできるだろう。

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庄野は若くして芥川賞をとり、芸術院会員にまでなった。功なり名を遂げた作家といってさしつかえあるまい。反面、庄野文学を正面から論じた批評は意外なまでに限られる。大家ではあるが、もはや文学的には「あがり」、論じるべき余地の残された対象だとは見られていないようでもある。たしかに、晩年シリーズなどはどれもほとんど同じようなエピソードのゆるやかな反復によって成り立っており、読者はじぶんが何作目のどこを読んでいるのかを見失うまでにさほど時間を要しないようなものだ。そこから何か新しい発見が得られるとは、あるいは考えにくいのかもしれない。

しかし、それは不幸なことである。庄野作品の文学的、あるいは社会学的可能性は、ふつうにおもわれているほどにはまったく汲み尽くされてはいない。たとえば、上に述べてきたような、日常にたいする拘泥の苛烈なまでの徹底さひとつとっても、他に類をみない性質のものである。少なくとも、ぼくにはそう思われてならない。

ぼく(長谷川)が初めて庄野作品を知ったのは小学生ころ、光村図書の国語の教科書に載っていた『ザボンの花』である。以来、熱心といえるかどうかはわからないが、ぽつりぽつりと読み継いできた。ぼくが庄野作品から離れられないのは、その徹底した日常への拘り方に関心があるからであるかもしれないと気づいたのは、最近のことだ。ぼくなりの方法で庄野作品へ切り込んでみた。それは、今夏上梓した『アトラクションの日常──踊る機械と身体』(河出書房新社、2009年)の「アトラクション7くりかえす」に収められている。

むろん、この一篇をもって十分な手応えを得たというにはほど遠い。おそらくこれからも、ぼくは折々に庄野作品を読みつづけてゆくだろう。その世界を読み解くことは、わたしたちの「日常」について考察し、これを理解してゆくうえで、かけがえのない手がかりを与えてくれるだろうから。

故人の冥福を祈る。


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