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『歴史叙述とナショナリズム-タイ近代史批判序説』小泉順子(東京大学出版会)

歴史叙述とナショナリズム-タイ近代史批判序説

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 本書評は、早瀬晋三著『歴史空間としての海域を歩く』または『未来と対話する歴史』(ともに法政大学出版局、2008年)に所収されています。



 本書には、タイの歴史をすこしでも知っていれば、ワクワクするような「新たな切り口・視角」があり、タイの歴史・文化の奥深さを知って、改めてタイの魅力にとりつかれることだろう。


 本書は、著者、小泉順子が過去数年間にわたって書いてきた論文を寄せ集めたもので、一見バラバラに見えるが、著者は「全体を通底している問題関心は、この間、筆者を動機づけてきた歴史と現在との対話とでも表現し得る主題である。すなわち、歴史叙述の政治性や近代性を問いながら、批判性、包括性、現代性に特徴づけられる歴史研究の可能性を探り、そこから歴史的視野が持つ意義を考えて」きたという。著者が具体的に問うたのは、「研究史」「史料」「今の自分の視線」の3つであった。


 「研究史」を問う意味は、各章の個別のテーマが、タイの歴史・文化の考察のなかで問うていることからわかる。流行のように、たんにナショナル・ヒストリーを否定するのではなく、なぜナショナル・ヒストリーがタイ史で語られてきたのかを問い、相対化したうえで、歴史の書き直しに挑んでいる。この「研究史」を把握することは、研究基盤の弱い東南アジア史では至難のことで、それは『岩波講座 東南アジア史』(2001-03年)、とくに別巻「東南アジア史研究案内」をみれば明らかだろう。


 「史料」を問うことの意味は、タイ史研究では、欧米や日本、中国の歴史研究をしている者には到底理解できない苦労があることを知っていれば、よりよくわかる。同じ東南アジアでも、欧米の植民支配下に入ったところでは、良い意味でも悪い意味でも近代的な文書資料が残されている。それは、欧米中心の偏ったもので、東南アジア側の歴史研究には、逆にマイナスであるといわれながらも、研究をスタートしやすいという点で大きなメリットがある。それにたいして、タイ史研究では、タイが欧米の植民地にならなかったがために、植民地宗主国が統治のために実施した国勢調査などの統計資料や官庁の公文書が少ない。また、現在においても王の存在が実質的な意味をもつタイでは、王朝史観を否定することは学問上においても難しいことである。第1章の「アユタヤー時代における徭役・兵役制度の「創造」」など、だれも手がつけようのなかったテーマである。史料があっても、それを読み込むだけのタイの歴史・文化の深い理解が必要だからである。


 3番目の「今の自分の視線」を問うたことの成果は、「あとがき」に現れている。著者は「新たに見えてきた課題」として、「第7章において検討した「タイシルク」をめぐる問題が、本書の底辺を流れる歴史的視座の現在的意義という問いを意識した原点であり、また本書から次の課題へと導く架橋となっていることに改めて気づかされた」という。そして、「もっぱらタイ近代史研究という文脈に自らを位置づけて研究課題を考えることに帰着させていたためか、自らの研究活動や、それをとりまく学術の様相を歴史化するという契機を欠いていた研究状況の意味について、深く考えざるを得なかった」。「今後の課題として、広域の地域秩序や長期の時間軸の中で、タイと日本の双方を対象化する視角を意識的に考え、両者の比較研究はもとより、東南アジアや東アジアという地域区分の再考をも含めたより広域かつ動態的な文脈の中にタイと日本を位置づける必要がある」と述べている。本書の副題に「序説」とあるのは、まさに「可能性としての歴史」が見えてきたからだろう。今後の研究の発展に期待したい。


 と、ここで終わりにすればいいのだが、「蛇足」を書かざるを得ない。著者本人が気づき、「あとがき」で述べていることであり、ほんとうに「蛇足」になるのだが、本書を読み終えてため息が出た。その理由は、本書「あとがき」の最後につきる。出版社の編集者が一貫して「タイ史を超えた読者に届けたい」と言っていたことだ。冒頭で書いたように、本書は「タイの歴史をすこしでも知っていれば」という前提で読まなければ、理解してもらえないだろう。編集者は通常最初の客観的な読者であり、しばしば的確なアドヴァイスをしてくれる。しかし、それを素直に理解し、一度書きあげた原稿を手直しすることはたやすいことではない。それにしても、本書がタイ史研究者だけに評価されるようでは、なんとももったいない。著者はその謙虚さから、書くための苦労や本書の価値を自ら充分に語っていない。本書の総括が、「あとがき」の冒頭でちょこっと書くだけでは、著者の伝えたかったことは読者に充分に伝わらないだろう。「終章」を設けて、しっかり書くべきだった。そうすれば、タイ史研究者以外の読者も、本書の内容をもっとよく理解できたはずだ。本書で考察した困難な問題は、東南アジアだけでなく文献の乏しい国・地域の歴史研究の共通の問題でもある。そして、その問題の克服が、文献史学中心の偏った近代歴史学を超えるために必要だ。「歴史学の危機」を好機に変えるヒントが、本書にはあるのに・・・。

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