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『新編 日本のフェミニズム1 リブとフェミニズム』上野千鶴子解説(岩波書店)

新編 日本のフェミニズム1 リブとフェミニズム

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 学生のとき、市川房枝参議院議員議員会館に訪ねたことがある。当時は、「わたしつくる人、ボク食べる人」というハウス食品のインスタントラーメンのテレビコマーシャルが、「従来の男女の役割をますます強固にする働き」をするとして、女性団体が抗議し話題になっていた。その抗議する女性たちのなかに市川さんもいた。そして、この抗議をからかった記事を書いた女性週刊誌を訴えることまでおこった。マスコミ報道される市川さんと、目の前にいる市川さんとが一致しないことが印象に残っている。1970年代の女性たちの活動が正当に一般の人びとに伝わらなかったことを、わたし自身が体験したことを、本書を読んで再確認させられた。


 その1970年代に誕生した「リブ」と「フェミニズム」を、「解説」ではつぎのように説明している。「通常、七〇年代を前半と後半に分けて、七〇年のリブの誕生から七五年までをリブ、七五年国際婦人年以降をフェミニズムと呼ぶ用語法がある。前者の担い手は自ら「リブ」と自称したが、後者には「リブ」の用語は使われなくなった。他方、「フェミニズム」の用語は、戦前の『青鞜』グループがすでに使用している、歴史的でかつ国際的に流通している用語である」。「「リブ」が「フェミニズム」に置き換わったのは、否定的なイメージの強い「リブ」という言葉を避けたいという意図もあるが、それより、戦前の第一波フェミニズムとの歴史的つながりを確認し、世界的な第二波フェミニズムの流れのなかに日本のリブを位置づけようという意図からである」。


 15年振りの増補新版にあたって、「リブ・フェミニズムを記録/記憶する」「「男女共同参画」とバックラッシュ」「リブが語る老い」の3編が加わった。「女という経験を言語化し記録から記憶へ、さらに歴史へと世代を超えて手渡すために」、過去40年間の歴史を清算する時代になったということができるだろう。とくにネガティブなイメージがつきまとう「リブ」については、たんなる「ヒステリー」として切り捨てるのではなく、なぜ1970年代に通称「中ピ連」(中絶禁止法に反対しピル解禁を要求する女性解放連合」に代表されるような運動が起こり、マスコミが派手にとりあげたのかを検証する必要がある。それは、女性史だけの問題ではないからである。近代からの離脱の試みは、男性中心の社会からだけではなかった。


 1970年代の運動は、その後「障害者差別や部落差別、民族差別」などと結びつき、解説者の上野千鶴子は、その広がりをつぎのように述べている。「「マイノリティ・フェミニズム」が相対化しようとしているのはマジョリティの側の価値観なのだから、最終的には脱マイノリティとなることがゴールであろう。それは同時にマジョリティに脱マジョリティを求めることでもある」。さらに、現状をつぎのように認識している。「フェミニズムは二〇世紀を揺るがす思想であった。ここを通過せずには、何も語れない地点にわたしたちは来ている。「民族」や「階級」、「国家」や「政治」もまた「ジェンダー」の用語で再定義される必要がある。ますます錯綜し多様化する状況の中で、ジェンダーだけで解ける問題はなくなるだろうが、逆にどんな問題もジェンダーなしには解けなくなるだろう」。


 マジョリティ側が、このことに気づけば問題の解決は早い。そのためには、とくに1970年代にマスコミによる「ありとあらゆる非難、中傷、ばり、からかい」などによってつくられたネガティブなイメージを取り払わなければならない。そのことは解説者も充分認識していて、旧版の解説でもまず「リブのイメージ」をとりあげ、つぎのように述べている。「リブの実像をその歴史的な誤解と歪曲から救い出し、伝達するにはリブのなまの声を聞くほかない。リブの原典を読んだ若いひとから、わたしは「これはわたしの知っているリブとはちがう」という感想を何度も聞いたが、つくられた「意外性」に驚く前に「わたしの知っているリブ」のイメージが、どのような権力の磁場で形成されたかを問うべきだろう」。


 女性たちをいらだたせ、ときに過激な言動を生んだのは、マジョリティ側の理解のなさであったことがわかると、「歴史的な誤解や歪曲」から抜け出せるだろう。その第一歩が本書を読むことであり、そして本書に登場した女性たちが書いたものを読むことだろう。

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