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『最後の戦犯死刑囚-西村琢磨中将とある教誨師の記録』中田整一(平凡社新書)

最後の戦犯死刑囚-西村琢磨中将とある教誨師の記録

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 1951年6月、赤道直下の現パプアニューギニアのマヌス島で、元近衛師団長の西村琢磨中将は、最後の戦犯死刑囚として絞首刑にされた。身に覚えのない罪状にもかかわらず、「一人でも多くの部下を救うべく」オーストラリアによるBC級戦犯裁判の判決を指揮官として受け入れた。


 本書は、作家角田房子から託された教誨師の手記を軸に、「オーストラリアによる国内世論に配慮した政治的な報復裁判」の不当性を訴えた「鎮魂の書」だ。戦争中に起こった「違法行為」を裁く裁判は、合法的に敗軍の将を処刑する。その異常さを真に知るのは、死刑宣告を受けた戦犯と、その最期を見届けた教誨師だけかもしれない。


 戦争については、時代や社会の要請に従って、さまざまな立場から「正しい歴史」が語られる。敗戦国日本が復興に向けて自信をもつためには、戦争裁判の不当性を訴え、無実の罪で処刑された軍人の潔さを語ることが必要であったように。


 NHKで制作に携わった番組や退局後に執筆した著作で数々の賞を受けた著者は、戦後の世論を率いたひとりといってもいい。本書では、講和を目前にして処刑が行われた背景に、戦後の関係国・人びとの思惑があったことを探り出している。しかし、それを踏まえてなお、戦犯容疑となった事件が東南アジアで起き、大きな傷を残したことは忘れてはならない。


 当時日本が捕虜待遇に関する国際条約を批准していなかったとはいえ、日本軍が無抵抗の捕虜を組織的に殺害したことにたいするオーストラリア人の怒りを受けとめることや、日本軍が東南アジアの華僑を敵性外国人とみなして大量虐殺したことを現地の人びとがどう見ていたのかを理解することも、戦争を知らない世代が諸外国との友好関係を考えるうえで必要である。未来に向けて、日本人にしか通用しない戦争認識から脱却する時期にきている。



 共同通信社の依頼を受けて、以上のような書評を書いた。本書を読みはじめてすぐに、とくに戦争を知らない世代に推薦できるような本ではないと思った。本書は、だれを読者対象として書かれたのだろうか。著者は、NHKに1966年に入局して以来、一貫して同じ視聴者、読者を想定しているのだろうか。「著者紹介」をみると、多数の受賞作が並んでいる。審査員も、著者が想定した視聴者、読者目線で評価したのだろうか。


 東南アジア史を専門に研究している者にとって、戦犯容疑となった事件が東南アジアで起こっているにもかかわらず、戦場とした人びとのことがまったく書かれていないことが不思議でならない。オーストラリアの報復裁判であることが強調され、不当性が訴えられているが、被告となった者が見当外れであったとしても、日本人のだれかを裁かなければ納得がいかないオーストラリア人や東南アジアの人びとがいたことに、思い至らなかったのだろうか。


 いまの学生の戦争認識は、原爆、空襲、沖縄戦といった被害者としてのイメージが強い。戦った相手はアメリカ、中国で、東南アジアが戦場であったという認識はない。それどころか、東南アジアのそれぞれの国の位置や特徴、日本との関係がわかっていない。高校の修学旅行でシンガポールやマレーシアに行っても、英語の語学研修でフィリピンに行っても、戦争のことはまったく知らない。本書で語られている反日感情もまったく知らず、オーストラリア人は親日的だと思っている。そんな戦争を知らない世代が本書を読めば、不当性を訴えるオーストラリア人に不信感を抱き、日本軍人の潔さに共感するだろう。


 本書は、このような若者たちがもつ戦争認識について、まったく念頭になく書かれている。戦争責任も戦後責任もまともにとれなかった世代の知識人が、いまだにこのような「戦記もの」を書くことの意味がわからないのだろうか。過去を検証する自己満足では、戦争の問題を後世に先送りするだけになる。それが、現代の若者をわけもわからずに苦しめることになる。オーストラリア人や東南アジアの人びとは、本書をけっして受け入れないだろう。加害者としての日本を知っているこれらの国や地域の若者とも、対話できない。いま必要なのは、勝ち負けを乗り越えて共通に語ることができる戦争認識である。そのためには、まず日本軍によって被害を受けた人びとのことを念頭におくべきだ。

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