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『世界史の中のアラビアンナイト』西尾哲夫(NHKブックス)

世界史の中のアラビアンナイト

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 2011年11月、フィギュアスケートNHK杯ショートプログラムで、浅田真央は青いハーレムパンツ衣装で登場した。曲は「シェヘラザード」。1888年夏に完成されたニコライ・アンドレイェヴィチ・リムスキー=コルサコフ作曲の交響組曲である。千夜一夜物語の語り手、シェヘラザードの物語をテーマとしている。


 本書の終章は、「シェヘラザードをめぐって-世界文学への道」である。そこで著者、西尾哲夫は、シェヘラザードをつぎのように紹介している。「アラビアンナイトのヒロインであるシェヘラザードは、アラブ文学を代表する女性像として、文学者や文学史家の注目を集めてきた」。「シェヘラザードは女性の美点を弁護して女性の地位向上を果たすためのキャラクターであるという見方もある」。「性愛文学の系列に属するアラビアンナイトでは、シェヘラザードの官能性が強調される。一方で、子ども向けファンタジーの中では、純真な乙女あるいは賢い母親としてシェヘラザードが描かれる。つまり、これといった性格特性のないシェヘラザードは、アラビアンナイトの位置づけによって、いかようにも変化するキャラクターなのだ」。


 本書では、なぜ「いかようにも変化する」ようになったのかを、学問的に立証している。著者は、つぎのように「序章 エブリマンズ・アラビアンナイト」で問いかけ、本質へと迫ろうとしているのかを説明している。「本書ではヨーロッパの東方観とアラビアンナイトの相互関係を検証しながら、国際協同による調査研究をとおして明らかになった新事実を織り交ぜ、アラビアンナイトの軌跡を俯瞰(ふかん)してみよう。アラビアンナイトの成立過程を追っていくことで、ヨーロッパ、中東、そして日本の近代史を、今までとは少し違った窓からのぞくことができるのではないだろうか」。「具体的には、《アラジン》《アリババ》《シンドバード》の内容から始まり、アラビアンナイトの成立史を簡単に確認した後、海外に膨張するヨーロッパが植民地経営の需要にみあったアラビアンナイト編集版を作成した経緯を追ってみよう。その過程で、近世エジプトで千一夜を含む物語集としてまとめられた「もうひとつのアラビアンナイト」が、どのように近代ヨーロッパとかかわり、世界文学へと変貌していったかが見えてくるだろう。そして最終的には、アラビアンナイトのキャラクター中、誰よりも個性の乏しい人物、つまり、語り手シェヘラザードの本質がつかめてくるはずだ」。


 そして、終章で、著者はつぎのように結論づけた。「シェヘラザードはアラビアンナイト解釈の文化的背景によって、いかようにも変化する人物として描かれていた。見方を変えれば、シェヘラザードは肉体性を喪失することによって女性の肉体機能が本源的に備えていると考えられていたカイド[策略、悪だくみ]の拘束から解き放たれたとも言える。千年以上も昔に「原アラビアンナイト」が誕生して以来、この物語集はさまざまに加工されてきた。多様な文化と時代、そして価値観を越えてアラビアンナイトが世界文学となりえたそもそもの原因は、肉体性を喪失した物語再生装置としてのシェヘラザードという初期設定にあったのではないだろうか」。「アラビアンナイトの登場人物中、誰よりも明確な個性を持っていたのは、無個性なシェヘラザードだったのではなかったか。そして枠物語としてのアラビアンナイトが、文明を越境しながら次々と新しい物語をとりこみ、うみだしてきたのは(そして今日もまた、新しいアラビアンナイトがうみだされている)、文化コードとしてのカイドを捨てることによって新しい力を得たシェヘラザードのおかげだったのではないだろうか」。浅田真央も、その「新しい力」に期待したのだろうか。


 そして、つぎのように結んでいる。「ガラン版『千一夜』に始まり、カルカッタ第一版、カルカッタ第二版、レイン版、バートン版、マルドリュス版などを包含する巨大な文学空間は、オリエンタリズムによってとりこまれた他者像を整形あるいは解体し、さらには融合させていった」。「近代ヨーロッパとアラビアンナイトのであいは、不幸な偏見を生み出すことにもなった。だが、本書でその成立の過程をたどってきたように、オリエンタリズム的文学空間は、特定の地域で伝承されてきた文学を新しい形へと変化させるモメンタムが生気する場として作用したと言えるだろう」。


 ところで、わたしたち日本人が親しんでいるアラビアンナイトは、どのように変化したものなのだろうか。「あとがきに代えて-日本のアラビアンナイト」で、つぎのように説明している。「日本でのアラビアンナイト紹介は、オリエンタリズム的文学空間で形成されたアラビアンナイトの移入に終始したことになる。だが、本書をとおして確認してきたように、現在のアラビアンナイト誕生のきっかけとなったオリエンタリズム的文学空間は、中東世界と近代ヨーロッパとの相互作用によって生じたものだった。つまり日本では、アラビアンナイトを産んだ中東文化への視点さえないような状態で、近代ヨーロッパで形成されたアラビアンナイトを受けいれてしまったことになる」。


 現在、ガラン版『千一夜』の全訳に着手しているという。このような研究が、現代社会の役に立つのだろうかと、訝しがる人がいるかもしれない。その疑問にたいして著者は、2010年から11年にかけて始まった「アラブの春」を演出したフェイスブックによるコミュニケーションについて、つぎのように解説をしている。「複雑かつ美麗な」「「書きことば」による情報交換が成立している世界と、「話しことば」による日常的な会話の世界が分かれて」いる「アラビア語圏では、民衆が言語コミュニケーションをつうじて広範なネットワークを作り出すことが難しかった」。「だがITの出現によって、大きな変化が生じてきた」。「若者たちは、ローマ字による日常会話をメールで送るようになった。ローマ字ではアラビア語のすべての音を表記できないのだが、友人同士の意思疎通にはそれほど問題はない。「話しことば」は、地域だけではなく職種や部族によっても異なるが、若者たちがローマ字メールに使用したのは、いわゆる中間アラビア語とよばれる新生アラビア語の一種だった。やがてアラビア文字を用いた通信環境が整いはじめると、二〇一一年の反政府運動で彼らが連絡用に用いたのは、アラビア語表記による中間アラビア語だった」。


 このような言語事情は、アラビアンナイトの普及や変化と大いに関係がある。どこのだれが、どのようにして読み、書き換えていったのかを理解することは、今日の社会情勢を把握する大きな力になる。基礎研究は、いつどのようなかたちで役に立つかわからないところがあるが、本研究は「アラブの春」の理解に役立つ。

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