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『ビルマ独立への道-バモオ博士とアウンサン将軍』根本敬(彩流社)

ビルマ独立への道-バモオ博士とアウンサン将軍

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 著者の本書への思いは、「エピローグ-この本を読んだあとに」の冒頭のつぎの文章によくあらわれている。「本書を読み終えたいま、皆さんはどのような印象を持ったでしょうか。バモオ博士とアウンサン将軍の人生をたどり、関連してアウンサンを暗殺したウー・ソオの事情を知り、さらに戦後のビルマと日本との関係を知ることによって、両国がここまで深い関係を持っていたことに驚いたり、新鮮に感じたりしたのではないでしょうか。少しだけ触れたアウンサンスーチーの思想に感銘を受けた人も多いでしょう」。「そうした驚きや新鮮な感情、感銘を大切にして、これからもビルマのことに関心を持ち続けてください。そして、この本を通じて得た知識を基に、自分なりの「問いかけ」を持ってもらえればと思います。ビルマと日本とのより良い未来の関係を築くために、どのようなことをすれば良いのか、どのようなことができるのか、ぜひ考えてみてください」。


 といわれても、本書の主人公であるふたりが何者であるかがわからない人には、ピンとこないだろう。ふたりの略歴は、それぞれ表紙の返しにつぎのように説明されている。「バモオ ビルマ独立運動と深く関わった知識人政治家(1893~1977年)。英領植民地期に英国とフランスに留学、ビルマ人初の哲学博士となる。1937年英領ビルマ初代首相に就任、42年6月、日本軍によるビルマ占領がはじまると中央行政府長官を経て翌年「独立ビルマ」の国家元首となる。日本軍敗退後、亡命して新潟県石打の寺院にかくまわれるが、46年1月GHQに自首。同年8月、英国政府の恩赦でビルマに戻る。独立後は政界復帰することなく、1960年後半には政治囚として刑務所に収監されるなど、死ぬまで不遇の日々を送る」。


 「アウンサン ビルマ独立運動の指導者(1915~1947年)。アウンサンスーチーの父。1936年ラングーン大学学生ストライキを指導、38年反英民族団体タキン党に入党、40年鈴木敬司陸軍大佐の画策で対ビルマ工作をおこなう南機関に参加、仲間と共に日本軍の軍事訓練を受ける。41年12月に日本が米英と開戦するとビルマ独立義勇軍を率いて祖国に進軍。日本軍占領下では対日協力に立つバモオ政府に加わり国防大臣を務める。44年8月ひそかに地下抗日組織を結成、翌年3月、バモオ政府と袂を分かち抗日蜂起に転じる。戦後は英国と地道に交渉を重ね独立への道筋を確定させるが、47年7月政敵によって暗殺されてしまう」。


 本書は、同著者の『抵抗と協力のはざま-近代ビルマ史のなかのイギリスと日本』(岩波書店、2010年)を基に、「15歳からの「伝記で知るアジアの近現代史」シリーズ」の1冊として書かれた。「しかし、構成を含め、大幅に内容を書き換え、一部重複するとはいえ、別個の中身を持つ本」になったという。


 本シリーズは、「抗日派だけではなく、「親日」とみなされてきた人々も積極的に取り上げる」としているが、著者は「抗日」「親日」という二項対立的にとらえるのではなく、ひとりの人物が状況により「抗日」にもなれば「反日」にもなったことを、これらふたりのビルマ人を通じて明らかにしている。とくに、独立後のビルマで、高く評価されたアウンサン将軍にたいして、低い評価しか与えられなかったバモオ博士の再評価をしている。


 32歳の若さで暗殺されたアウンサン将軍にたいして、バモオ博士は1937年に44歳でイギリス領ビルマの初代首相に就任し、43年には日本軍によるビルマ占領下の「独立ビルマ」の国家元首になった。ともに主権を制約されたなかで、「協力姿勢を基盤にして相手の信頼を獲得し、そのうえで可能な範囲で自己主張や抵抗を行う」という難しい対応を迫られた。しかも、多数派の政治勢力に属しておらず、ビルマ人の政敵からも激しい批判を浴びながらの政治的判断をしなければならなかった。


 このふたりの関係は、フィリピンの第一の国民的英雄ホセ・リサール(1861-96)とフィリピン共和国初代大統領(1899-1901)アギナルド(1869-1964)との関係に似ている。実際に政務を執ることなく若くして死んだ者と、長く生きて失政もおかした者の、後世の対照的な評価という点においてである。坂本龍馬(1836-97)も、理念だけがもてはやされ、実行力が問われる前に暗殺された。本書のバモオ博士のように、しっかりとした学問的成果を基に再評価すべき人物は、どこの国にもいるだろう。


 また、日本占領下の「抵抗と協力のはざま」は、フィリピンでも同じことが起こっており、バモオ博士が1943年11月に東京で開催された大東亜会議に出席したときに同席したフィリピン共和国大統領ラウレルも、同じ姿勢で日本占領下で耐える日々を送っていた。フィリピンは、ビルマより2ヶ月半ほど遅れた43年10月14日に日本軍から「独立」を与えられた。


 日本軍の将兵にたいするビルマ人の怒りの原因についてのつぎの説明も、フィリピン人と共通のものであった。「日本軍の将兵らが基地の外でビルマ民衆に平手打ち(ビンタ)を行うことがあったため、ビルマ人の怒りを買いました。ビルマの文化では、人前で平手打ちをされることは、その理由を問わず許されない屈辱として受け止められています。言葉による意思疎通ができないとすぐに怒って平手打ちをする一部の日本軍将兵は、憎しみと軽蔑の対象となりました。さらに、人前で裸を見せることを極端に嫌うビルマ人の文化を無視して、兵士らが平気で彼らの前で全裸になって水浴びをしたことも、日本軍への反感を生じさせました。ビルマの人々は水浴びの時もふつう全裸にはなりません」。


 このように、ビルマなどそれぞれの国・地域を東南アジア史のなかで相対化することによって、それぞれの国・地域の独自性と、日本軍政の共通性、さらに世界性・時代性といったものがみえてくる。そして、東南アジアのそれぞれの国・地域と日本との深い関係がみえてきて、その関係を大切にしなければならないことがわかってくる。


 そして、この書評で引用した冒頭の文章につづけて、著者は「エピローグ」で「少数民族の立場」「経済発展と人権」「歴史を知ることの大切さ」の3つの項目を設けて、ビルマへの理解を深めてもらおうとしている。これも、東南アジアのほかの国ぐにに共通することだろう。本書をきっかけに、ビルマからさらにほかの東南アジアの国ぐにへの関心が高まることを期待したい。そうすることによって、ビルマをもっと深く理解できるようになるだろう。

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