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『フィリピン近現代史のなかの日本人-植民地社会の形成と移民・商品』早瀬晋三(東京大学出版会)

フィリピン近現代史のなかの日本人-植民地社会の形成と移民・商品

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 本書は、30年間余にわたって研究してきた日本・フィリピン関係史をまとめたものである。通常、還暦、退任といった節目にまとめるものを、一足早くまとめた。多くの研究者がまとめることができずに出版しなかったり、出版しても序章・終章のない既発表論文の寄せ集めで終わるのをみてきたからである。早く出版すれば、これで終わりではなく、「つぎ」へ進むことができると思った。


 本書は、これまで書いてきたもののなかから8論文を選び、3部に分けた。3部のタイトルは、つぎの通り学術書としてふさわしくないものかもしれない:「フィリピンで汗を流した日本人」「フィリピンの生活必需品となった日本商品」「フィリピンと戦争を挟んで交流した日本人」。また、「索引」は21頁で、どうでもいいような職種や雑貨名が並ぶ。これも本書の特色のひとつで、「索引」はたんなる付録ではなく、学術書の1部として自己主張している。これらのことは、従来学術書で充分に扱われてこなかったことを議論していることを示している。


 本書の「序」と「結」は、近現代日本・フィリピン関係史を研究してきて、ずっと気になっていた基本的なふたつの問いでまとめた。「序」は、つぎの文章ではじまる。「本書を通じて問いつづけていることが、ふたつある。ひとつは、フィリピンは、なぜ近代を代表する大国アメリカ合衆国の植民地であったにもかかわらず、けっして「自由と民主主義」を謳歌し、物質文化に恵まれた「豊か」で、政治的に安定した国家にならなかったのかである。もうひとつは、日本とフィリピンとの交流が長く、密接であるにもかかわらず、なぜ広がりをもつ蓄積あるものにならなかったのかである」。「これらのふたつの問いは、たんにフィリピン史や日本・フィリピン交流史研究にとどまらない、大きくて深い問題を投げかけている。今日、そしてこれからの世界を考えるにあたって、前者は大国主導ではない世界秩序の構築を、後者は多文化共生が重視されるなかでの交流のあり方を問うているからである」。そして、「結」で、それなりにこたえたつもりである。


 本書の特徴のひとつは、「一言でいえば、「近代文献史学を超えるための現代の歴史学」ということになるだろう」。各章は、文献史料から得られるデータを集計し、その事実から議論を展開している。「意図的であるかないかを問わず、恣意的な資料の「つまみ食い」という弊害を避け、資料の全体像を明らかにしたうえで、分析・考察するために」、「資料の整理、研究工具の作成・刊行と同時並行して」書いてきたものである。


 つぎの特徴として、首都中心の近代の歴史像からの解放を目指したということである。日本側の対アジア貿易、アジア向け商品の製造の中心であった大阪・神戸に注目し、港別貿易統計を使って、東京・横浜中心史観の日本の対外関係史では軽視されてきたことを明らかにした。また、その日本商品が普及したフィリピンの都市の下町や地方社会に目を向け、日本商品が貿易統計以上にフィリピン社会に影響を与えたことを論じた。


 もうひとつの特徴は、つぎのように日本人や日本商品を受け入れたフィリピン社会の特性を念頭に置き、さらに今日のグローバル化のなかでのヒトとモノの移動を考えたことである。「ここで忘れてはならないのは、日本人や日本商品を受け入れたフィリピン社会が海域に属していたことである。流動性が激しく、安定していない海域世界では、ヒトやモノの移動が日常的で、「よそ者」は新たな知識や技術などをもたらしてくれる歓迎すべき存在だった。自分たちの生活を豊かにしてくれるヒトやモノを拒む理由はなかった。これまで「棄民」ということばで象徴的にあらわされてきたネガティブな移民像から脱却し、「よそ者」をポジティブに受け入れてきたフィリピン社会を念頭に日本人移民を考察していくことも必要だろう。そして、今日、グローバル化のなかでさまざまな影響が歓迎/危惧されるなかで、自分たちも気がつかないうちにほかの人びと・社会に影響を与えるかもしれないことを自覚しなければならないだろう」。


 これで、フィリピン研究を「卒業」するつもりでいる。「卒業」は引退ではなく、新たな出発である。フィリピン研究だけをやっていると、日本で発行されたフィリピン関係の本は全部読んでいなければならない、最新のフィリピン研究を把握するためにフィリピンに足繁く通い本を買ってこなければならない、というような「強迫観念」がつきまとった。結果として、視野が狭くなり萎縮して、学び発展しようという意識が薄らいできていたような気がする。フィリピンにこだわらなくなることで、新たな問題意識ができたり、フィリピンだけでは解決し得なかった問題の糸口が見つかるかもしれない。そう期待して、「つぎ」へ進みたい。


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