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『自民党と戦後史』小林英夫(KADOKAWA)

自民党と戦後史

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 「なぜ、自民党は長期にわたり政権を担当できたのか」という幅広の帯にある問いに、著者、小林英夫は「はじめに」で、つぎのように答えている。「まずは保守系の多彩な人材を抱えてきた、あるいは吸収しつづけた、その力をあげねばならない。そしてその人材吸収の範囲は幅広いし、党史の人脈をたどっていくと、その力は戦後突然に始まったものではなく、戦前、否、さらには明治の日本憲政史出発時から蓄積されてきたものなのである」。


 著者は、専門の満洲史や日本企業史の研究実績をいかして歴代政権を評価し、現代日本政治のこれからを読み解こうとしている。まず、戦後の日本の長期の高度成長を保障したのは、東南アジアという安定した海外市場を新たに得たことであるとし、そこには岸信介の「満洲組」人脈と満洲での見果てぬ夢があったことを、つぎのように述べている。「岸の組閣後の動きを追ってみると、明らかに一つの高度成長プランが浮かびあがる。それは、戦前の満洲国での官僚主導による戦時高度成長の見果てぬ夢を戦後のなかで実現しようという動きである。石橋内閣時代にその端緒がみられ岸内閣のもとで「新長期経済計画」として結実したその政策は、官の強力な支援体制下で、金属、機械、化学といった重化学工業を成長させるという意味では大いなる共通性を有していたといえる」。「中国やソ連との経済関係を断って、その代替地を東南アジアに求め、賠償を解決することでその足場を築いた政治家が岸信介である」。そして、「岸の東南アジアへの経済外交を具体化させる機構として活動」したのが、アジア問題調査会である。その事務局長が、岸をとりまく「満洲組」のひとりであった藤崎信幸で、アジア問題調査会はのちに通産省所管の特殊法人アジア経済研究所に繋がる。「岸や椎名[悦三郎]らの「満洲人脈」が中枢を占めた一九五五年から六〇年前後までは、次官、局長クラスはほとんどが「満洲人脈」の息のかかった、いわゆる「椎名門下生」で固められていたという」。


 岸についで東南アジアを重視したのは、福田赳夫であった。「彼は経済政策では、池田勇人田中角栄とは対照的に、安定経済成長を唱えて軌道を修正し、外交政策では対アジア平和外交を推進した。一九七七年八月に福田は東南アジア歴訪の旅に出発し、マニラで「心と心のふれあい」をうたった「福田ドクトリン」を発表した。福田の東南アジア訪問は、三年前の田中角栄の訪問時とは様相を異にしていた。田中は、反日暴動の嵐にさらされたが、福田は東南アジアでは好感をもって迎えられた。この間の、田中訪問時の反発以降の企業の現地とけこみの努力もさることながら、東南アジアでも七〇年代前半の「民主化の時代」は終わりをつげ、後半は経済成長の重要性を認識する時代へと変わり、日本の経済力が必要な時代が到来してきていたことが大きかった。さらに中国に対しては、翌七八年八月に日中平和友好条約に調印した。ソ連覇権主義に反対する「反覇権主義」を掲げて、尖閣諸島問題を棚上げにしての条約調印を行った」。


 著者は、「自民党の衰退は田中内閣をもってはじまり」、「「角影」の下では中心派閥が力をふるえず、また新規の人物が登場し実力をふるうことができないこと自体が自民党の衰退過程にほかならなかった」と結論している。「中曽根内閣が打ち出した内需拡大バブル経済を生み出し、九〇年代以降の「失われた一〇年」の原因をつくりだした。日本経済が元気な中曽根内閣の時代にIT産業などの二一世紀型新産業への移行を準備できていたら、その後の日本経済がかくも苦しむことはなかったであろうと思われる」。「中曽根内閣同様、グローバル化の波がひたひたと押しよせ、社会主義体制が崩壊する前兆が随所にみられるこの時期[竹下内閣]に、なんらの対策も政策も打ち出せず、他の韓国や台湾などのアジアの国や地域が必死で二一世紀型産業ともいうべき半導体産業の育成を模索し、日本へのキャッチアップを官民あげて推進しているとき、アメリカからのプレッシャーがあったとはいえ、自民党の指導者が、かくも無邪気で牧歌的な国内需要優先型政策を実施していたというのは驚きというほかはなかった」。


 その自民党が、2度政権を失いながら復活できたのは、長年培ってきた底力ゆえか? 著者はそれをつぎのように否定し、民主党に期待を寄せている。自民党は八〇年代になると、「これまであった派閥間の抗争を通じた柔軟力の育成は影を潜め、政策の幅は著しく狭まり柔軟性を喪失し、派閥の強靱性も喪失していった。他方、非自民の中核である社会党でも七〇年代までの思想分岐は希薄となり、国対族が次第に力をつけはじめ議会ルール化の一翼に社会党も包摂されはじめていた。全体として自民党の初期にあった強靱性も柔軟性も失われていったのである」。そして、二〇一二年に自民党は再々度政権に復帰したが、「もはや旧派閥の力はなく、官邸主導の一極集中の強靱性のみが前面に登場し、かつての柔軟性は微塵もみられない状況となっている。したがって、一見強靱そうにみえるが、内外の変化に即応できる柔軟性は具備していない。したがって、経済成長の見通しが狂ったとき、あるいは予期せざる国際関係の変化(日中関係の激変など)が生じたとき、これに対応できるシステムが整っているわけではない。そのときは受け皿を失ったまま崩壊の姿が日本政治の前途に広がっていくのである」。


 それにたいして、1996年の結党から18年、「さしたる成果をあげることなく終わった三年三か月に及んだ」政権を経験した民主党の課題は、「一つは民主党らしい具体的なマニフェストづくりであった。当面の選挙目当ての口当りのよいスローガンだけではなく、財政的に裏づけをもった日本の将来展望を見通したプランづくりが求められたのである。そのためには、党の指導部の若返りと純化、政策で一致する必要性、党内の統一性が必要とされた」。「二つには、政治家として必須な研究と勉強と体験であった。・・・寄合世帯は出発時点から明らかだった。しかしその体質からの脱皮が課題だったのである。さいわい全体の六〇%を超える議員は、民主党が誕生したのちに入党し議員となった比較的若い世代の人々である。彼らがこれまでの経験を踏まえ失敗の原因を検討し、総括して再出発したときに、民主党自民党と対決できる政党となるに相違ない」。「結党以降、年を経ていない民主党が、二〇一二年暮れの下野の経験を総括して生まれ変わることが、二一世紀の健全な政治経済軍事外交展開の重要な鍵であることは疑う余地がない」。


 「おわりに」で、著者は「多くの日本国民が拭い難い安倍総理の時代錯誤意識を感ずるのである」と批判する。本書を通読した者にとってはよくわかるが、安倍政権支持率からさらに多くの日本国民がそうは感じていないだろうことが想像される。貿易赤字の肥大化、財政赤字のますますの深刻化のなかでの「日本経済の建て直し」戦略に疑問をもつのはたやすいが、国家安全保障会議(日本版NSC)設置法や特定秘密保護法の成立、国家安全保障戦略と防衛大綱の閣議決定の問題は、少しは勉強しないと歴史と国際情勢の把握が充分でないことからきていることがわからない。疑問をもっても経済状況がさほど悪くなければ黙る、時間的にも空間的にも視野の狭い国民に、「安倍総理の時代錯誤意識」をわかってもらうことは難しい。残念ながら、その術は本書に書かれていない。

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