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『個人的な体験』大江健三郎(新潮文庫)

個人的な体験

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「「弱者」と「強者」」

 フランスはご存知のようにカトリックの国なので、多くのチャリティー活動が行われている。バイク事故で突然逝ってしまった、喜劇俳優のコリューシュが始めた「Les Restos du coeur」(心のレストラン)などはその代表的なものだ。毎年数多くの社会的弱者が、この活動のおかげで飢えをしのいでいる。

 しかし「弱者」とは何者だろうか。私たちは社会的弱者として、老人、幼児、病人、そして障害者等を考えるだろう。だが大江健三郎の『個人的な体験』を読むと、はたして障害者は「弱者」なのかどうか、分からなくなってくる。なぜならこの作品では、障害者(障害を持った赤ちゃん)が彼の父親を救うからだ。第二期作品群と言われる、大江の障害児とその父親の物語では、父親は障害児によって助けられる事が多い。

 主人公のバード(鳥)は27歳と4ヶ月という年齢でありながら、体力は40歳という、既に青春とは縁のない青年である。バードは大学院の時に、国立大学の英文学科の主任教授の娘と結婚したので、前途洋洋の未来が開けていたはずだ。しかし、その夏4週間もの間ウィスキーを飲み続け、エリート階段から転げ落ちてしまう。

 冒頭のシーンでは、予備校に職を得たバードが本屋でアフリカの地図を眺めている。彼の妻は産婦人科で今まさに彼らの子供を産み落とそうとしているのに、バードはアフリカへ行くという非現実的な夢の中に埋没している。赤ちゃんを迎える精神的な準備はできていなく、赤ちゃんは自分を夢の実現から遠ざけるものとして認識されている。

 そんなバードであるから、例え健康な赤ちゃんであったとしても、安定した生活が待っているわけではない。そして生まれてきたのは、頭に大きな瘤を持った赤ちゃんだった。脳ヘルニアと診断された赤ちゃんを、バードはあらゆる手段で「排除」しようとする。罪の意識が無いわけではないが、その軽減を考えるだけで、根本的な解決法を考えようとはしない。

 紆余曲折がありながらも、最終的にバードは赤ちゃんとの共生を決意する。その成長したバードの姿は、一度彼と出会った若者たちが見分けられないほど変化している。バードは言う。「現実生活を生きるということは、結局、正統的に生きるべく強制されることのようです。」この言葉は重い。「個人的な体験」を通して、バードが「社会的人間」になった瞬間である。

 そこに気づかせてくれたのは、障害を持った赤ちゃんだ。彼のおかげでバードは成長した。これが普通の赤ちゃんであったら、バードの成長は望めなかっただろう。障害者であるからこそ、父を救う事ができたのだ。誰かを救う事のできる存在は、決して「弱者」ではない。弱者はむしろバードの方であろう。

 私たちは、普通とは違う存在を排斥したがる。それは自分たちの正当性を信じたいが為であろう。だが、私たちの本当の姿を知るためには、良く似てはいても違った存在が必要なのだ。皆が同じになってしまったら、成長は止まる。違いが有るからこそ、学ぶ事ができる。バードは自分の息子が異形の存在であるからこそ、自己を知ることができた。その意味において『個人的な体験』は、弱者と強者の逆転だけではなく、人類が生き延びる道を示唆している作品であると言えるし、それ故のノーベル賞受賞であるのだろう。


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