『火宅の人』檀一雄(新潮文庫)
「無頼派の人生の旅」
パリは「芸術の都」や「花の都」と呼ばれる。確かにここでは多くの芸術家が誕生し、公園には常に花が咲き乱れている。だが、最後の無頼派と呼ばれた壇一雄にとっても居心地の良い場所であったようだ。アメリカとイギリスを回ってパリへ来た時に、モンマルトルに滞在した後、凱旋門近くのアムラン小路のアパートに住む。料理が生き甲斐の一つなので、キッチンがある事を喜び、しばらく滞在する。このアパートは、私がパリに来た当初14年間住んでいたトロカデロから徒歩10分ほどの所だ。小説の情景が目の前にあるというのは、何か不思議な気がする。
『火宅の人』は壇一雄が20年の歳月をかけて書き続け、死の数ヶ月前に完成した作品だ。中心は恵子という愛人(私小説的作品なので、実在のモデルがいる)との生活なのだが、無頼派の名前に恥じない、酒・女・仕事・料理(作る方である)の繰り返しである。特に、酒と女は甘美な麻薬のように、主人公にとって必須のものだ。仕事もかなりの量こなしている。そうでなくては本宅、愛人宅含め4件の家庭を保つ事はできないだろう。
愛人と事を起こす前に「私は現在の妻に、何の不満も持ち合わせていない。」と考える。なのに「私を信じきれぬならば、私も自分を天然の旅情に向ってどえらく解放してみたい。自分ながら賢者のなす業ではないと繰り返し思ったが、時にまた、おのれの愚に即いてみたいと願う事だってある。」という思いを振り切れない。幼い時に母親に去られたために料理を覚え、それが楽しみとなり、多くの人のざわめきの中にいることを至福としながら、その関係を長続きさせようとはしない。
嫉妬に狂う寂しがり屋であるのに、現前の愛を大切にする事には不器用な存在。「愛とは男女を持続して管理する生活術のようなものか。」と思う。太宰と親交のあった壇の、太宰との共通項が見えてくる。寂しがり屋なのに自分を寂しい所へ追い込んでしまう。そんな自分に嫌気が差し、酒に溺れる。悪循環であろうが、いかにも人間臭い。私たちの心に薄まって(意図的に薄めて?)ある何かが、凝縮して現れているようだ。
パリで食材を買い込み、料理を作るときは非常に楽しそうだ。種々の食材やその値段まで克明に書いている。魚の頭を切り落とされて慌てる所など、今も同じだ。我が家も頻繁に刺身を食べるが、切りそろえて売っているはずもなく、一尾買ってきて、3枚や5枚におろし、自分で作るしかない(もちろん私の場合は妻に作ってもらうのだが)。マルシェで買い物をするのは、料理好きに取って何よりもワクワクする瞬間であるに違いない。
アメリカ、ヨーロッパの旅から帰国し、しばらくして当の愛人とも別れる。体の不安も現れ、年齢ゆえの衰えも感じる。孤独を身に纏うようになりながら、一人でホテル暮らしをする。そこで最後に思い出すのは、パリで迎えた新年の事だ。31日の夜から元旦の朝にかけて、シャンゼリゼを歩く。種々の国籍の人達が「ボナネ(新年おめでとう!)」と言い合い、ビズー(キス)を交わし合っている。そこへ行きたいと強く思う。
最後の章は病床での口述筆記だという。松尾芭蕉の辞世の句「旅に病んで 夢は枯野を かけめぐる」が思い出される。「旅情」を追いかけた孤独な作家の姿が、心に染みる。