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『震災と原発 国家の過ち』外岡秀俊(朝日新書)

震災と原発 国家の過ち

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「文学に見る不条理克服の知恵」

 東日本大震災のような圧倒的な自然の力を前にして、我々は何を思うのだろうか。犠牲者や被災者の事を考えるのは当たり前としても、自然に対して怒りを向けても虚しい。それは自然の力を甘く見たり、自然をゆがめようとしたりしている私たち自身に返ってくる、天に向かって唾を吐く行為に似ている。だが、原発事故は人災である。怒りと反省の向かう矛先は明確に存在する。

 『震災と原発 国家の過ち』を上梓した外岡秀俊は、朝日新聞の誠実な記者として、また名文家として知られた存在だ。彼は早期退職により故郷の札幌に帰り、まもなく両親と暮らす事を楽しみにしていた矢先に震災と原発事故に遭遇した。大災害により自己の指標が揺らいだ時、外岡はかつて愛読した文学作品を思い出す。そしてそこに新たな「自分なりの座標軸」を見つけようとする。

 不条理な災害から立ち直るための力や希望を探しながら再読した彼が見いだしたのは『ペスト』において「荒れ狂う疫病を防ぎ得なかった」リウーであり、「あてもなく彷徨している」『城』の測量士である。『黒い雨』の矢須子は「原爆症に臥せったまま」であり、『怒りの葡萄』のジョード一家は「離散し、あげくに水害に襲われて」いる。

 このような不条理にさらされながらも、主人公たちには「何か気高いもの」があり、「決して奪われることのない人間の尊厳と誇りが、生身の肉体に宿っている」と外岡は考える。「文学が被災者に希望を与えるのではなく、被災者が希望であることを教えるのが文学である」という一言は重い。私たちが障害者を守るのではなく、彼らこそが希望そのものであり、私たちを救う存在であると主張した大江健三郎の考えにも通じるところがある。

 2011年3月末から12月末にかけて被災地を取材した経験を元にして、文学作品を再読するという作業から、示唆に富んだ考えを導き出している。あまりの事に言葉を発する力も失った被災者たちと繋がっているために必要なのは、やはり「言葉」であり、「誠実さ」であると『ペスト』は教えてくれる。戦争文学を検証し、「空虚な『想像力の帝国』は、戦後もかたちを変えて持続してきたのではないのか。」と指摘する。これは現在も日々の報道で私たちが実感していることだろう。

 エドガール・モランの『オルレアンのうわさ』からは、いかに原発に対する「無意識化」が行われ「安全神話」が形成されていったかを解き明かしている。「喉元過ぎれば熱さを忘れる」でこの「無意識化」が再び行われるようならば、「私たちは、引き返すことのできない滅びの道に、再び舞い戻る」と判断するのは当然だろう。

 多くの人がその理屈を分かっていながら、しかたがない、現実は理想通りには行かない、等と言って見過ごしているうちに「無意識化」は忍び寄ってくる。そこで私たちがどのような行動を取るかが、日本の未来を決定することとなるだろう。「あえて、希望を語る。あえて、東北の可能性を語る。大震災の悲惨に立ち向かう武器は、ビジョンを語る言葉をおいて、ほかにはない、と思う。」と外岡が語ることを、ただの理想論と片付けられるだろうか。言葉は無力だと諦めることにこそ、最大の怠慢と罠が隠されていないだろうか。

 他にも種々の文学作品を通じて、非常に興味深い誠実な考察がなされている。ITの発達と共に文学の姿が見えなくなりつつあるが、文学そのものが変質したわけではない。人間の存在そのものが変化しない限り、こちらが真摯に対峙すれば、文学はいつでも多くのことを教えてくれるだろう。この作品に触発されて、私が再読するために今手に取っているのは、長塚節の『土』である。


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