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『ペコロスの母に会いに行く』岡野雄一(西日本新聞社)

ペコロスの母に会いに行く

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「可愛い老人の物語」

 日本は言わずと知れた長寿国である。しかし、同時にそれは老人大国である事も意味している。どんどん増えていく老人と比較すると、それを支える若者は逆に年年減少している。年金制度は破綻しかけ、日々の生活もままならない高齢者も多い。どのように生きていくかだけではなく、どのように去っていくかを考えさせる情報が溢れ始めているのも、当然のことであろう。

 フランスには在仏北海道人会がある。私も北海道出身なのでお手伝いをしているが、かつて日本の老人医療の専門家を招いて講演をしてもらったことがあった。種々の身につまされるエピソードを披露してくれたが、一番印象に残ったのは、介護してくれる人たちにできるだけ迷惑をかけない方法は何かという質問に対して「可愛い老人になって下さい」という答えだった。認知症であろうとアルツハイマーであろうと、お世話をしている人たちが可愛いと思える老人になることが大切だというのは、腑に落ちた。

 岡野雄一が漫画『ペコロスの母に会いに行く』で描く「みつえさん」は、まさに「可愛い老人」である。熊本の天草の農家から結婚するために長崎に出てきて、酒癖の悪い夫の世話をしながら二人の男の子を育て、夫の死後緩やかな認知症脳梗塞の発作のためグループホームで暮らしている。作者はみつえさんの長男で、時々ホームを訪れ、みつえさんとのひと時を過ごす。

 こう書くと、今の日本ではどこにでもありそうな家族風景なのだが、特徴的な絵と長崎弁が独特な世界を作り上げている。顔の表情と単純な曲線が良い。方言の世界が豊かだ。そして感心するのは、母に対する作者の鋭い観察眼であり、母の心中を思いやる想像力である。例えグループホームで暮らしていても、介護というのは大変なものであるに違いない。だが「大変な苦労」と書いても、苦労の大変さは伝わってこない。99%の大変な介護の中にふと現れる静かで優しい瞬間。そこをきちんと描く時、描かれない99%が私達に伝わってくる。

 若い頃は酒癖が悪く家族に迷惑をかけた父は、晩年酒を止めて仏様のような好々爺になり逝った。認知症のみつえさんのところには、その父(みつえさんの夫)が時々やってくる。みつえさんは、父ちゃんが現れるならば惚けるのも悪い事ばかりではないと言う。記憶の浄化作用かもしれないが、人が生きていくというのは、そういうものだろう。というより、記憶を浄化しなければ、生きていくのが辛くなってしまうに違いない。端から見ると、あんなに苦労をかけられたのにと思うかもしれないが、本人にとって別な記憶となっている事も多いに違いない。

 かつて有吉佐和子が『恍惚の人』を上梓した時、私達はその慧眼に目を瞠った。有吉の予言が現実となった今、介護という厳しい日々に追われる時、同じ境遇にいる人からのユーモアに溢れた優しいメッセージには、癒やされる人が多くいることだろう。みつえさんの一言や牧歌的な表情に、私達は救われる。だが、松尾芭蕉の天の川を詠んだ句が美しいのは、背景に佐渡の悲惨に満ちた歴史が控えているからであるように、みつえさんと作者の日々にも、僅差で生死を分けるようなできごとがあり、長崎の原爆による被害もあることを、忘れてはならない。


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