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『方法としてのフィールドノート――現地取材から物語作成まで――』R.エマーソン・R.フレッツ・L.ショウ(佐藤郁哉・好井裕明・山田富秋訳)(新曜社)

方法としてのフィールドノート――現地取材から物語作成まで――

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「フィールドノワーカーへの頼もしい援軍」


フィールドワークを行うときには必ず記録を残しますが、この記録のことを「フィールドノーツ」と呼びます。「フィールドノーツ」などというと、何か学問的で特別なものをイメージしてしまうかもしれません。質的調査を学びはじめた学生に「ノーツを付けなさい」とだけいっても、なかなか実行できない人がいます。かく言う私も、自分がフィールドワークを初めて1年以上の間、「自分のように週に一度ぐらい足を運ぶ程度のものを、そもそもフィールドワークと呼んでいいんだろうか」と半信半疑で、したがってフィールドノーツも残していませんでした。もし今の私が当時の私に会っていたら、「とにかく書き残しなさい。気張らず日誌をつける感覚でよいから」と言ったことでしょう。

こうした初学者の迷いの一因は、他の人が書いたフィールドノーツを見る機会がなかなかないことにあります。フィールドノーツは、まずは自分が忘れないようにするためのものですから、登場人物たちは実名ですし、現場では守秘事項になっているようなことも含まれています。そのようなものを他の人に見せる状態にするには、相当の編集・加工が必要です。また、考え込まずにどんどん書くべきなので、文章としては書いた本人が恥ずかしくなるぐらい未熟なものになります。フィールドノーツは公にしにくいのです。

だからこそ、公刊されたフィールドノーツの実例は貴重です。そうした実例は、以前このブログでとりあげた佐藤郁哉『フィールドワークの技法』にも出てきますが、実例の豊富さという点では、エマーソンらによるこの一冊を挙げておきたいと思います。この本は、カルフォルニア大学ロサンゼルス校(UCLA)などで著者たちが行ってきた調査法についての授業にもとづいています。フィールドワークという実践が持つ意味を解説した第1章から始まって、現場でメモをとりノーツを作る仕方について解説した第2~4章、ノーツをもとに報告書(エスノグラフィー)を作成してゆくプロセスについて詳説した第5~7章、そして短い結論(第8章)および訳者による解説(この本の読み方や質的調査に関するガイド)、という構成になっています。とりわけ第2~4章では、著者たちの授業で提出されたフィールドノーツの一部分が豊富な実例として示されており、たいへん参考になります。例えば、よく学生から出る質問のひとつに「フィールドノーツには、客観的な出来事だけ書いて、自分の主観的な感情や考えは書いてはいけないのか」というものがありますが、必ずしもそうとはいえないことは、この本を読めば納得できるでしょう。私自身は、調査の経験を少し積んで「こんなノーツの内容でいいのかな」と少し不安になったときに、これらの実例を興味深く読みました。

私が担当している調査法の授業では(現在でも試行錯誤が続いておりますが)初学者がフィールドノーツを作ることについて、どうやら次の三つのことを強調しているように思います。第一に、人間は忘れやすいことを実感すること。言葉だけなら誰でも分かっているでしょうが、本当にそれを実感しているかどうかは、人によりけりです。フィールドでの体験についての記憶を、あたかも手に掬った水が零れ落ちてゆくかのように感じられる人は、それを書き残すことに執着するはずです。第二に、無駄を怖れないこと。実際のところ、フィールドノーツのうちかなりの部分は、報告書を書く段階になって切り捨てることになりますし、有用な部分でさえ短い記述にまとめられてしまうことが少なくありません。フィールドノーツを作るのに費やす膨大な時間と労力を考えれば無駄が多いように見えてしまいますし、とりわけ報告書を一度も作ったことのない初学者の場合には「こんなこと書いていて何になるんだろう」と疑問に思えるでしょう。そんなときに「無駄の中に宝あり」と信じられるかどうか。第三に、できるだけ頑健なデータとして書き残すこと。これは、例えば「彼は集団の中で孤立していた」といってしまうだけではなく、「彼がこのように言ったら、他のメンバーがこのように言った。また、別のメンバーはこのような仕草をした」というように、具体的な行為のレベルで書き残す(そのうえで「彼はどうやら孤立しているようだ」などと書き加えるのは構わない)ことを示しています。そうすることによって、「孤立している」という書き手の評価について(良い意味で)疑い深い読者を説得する材料を保持できますし、将来の自分自身がそのような評価をチェックし、場合によっては別の新しい見方に移行するチャンスが生じるのです。

先日、富山大学社会学を学んだ卒業生の一人が、次のような話をしてくれました。彼女は水産関係の職場にいたのですが、先輩の社員に連れられて魚市場をまわっていたとき、魚の種類や旬などの情報が会話の中で飛び交っているのに気づいて、自然と手が動いてメモをとったそうです。それを見ていた市場の人が「あの娘はタダモノじゃない」と言っていたのを、彼女は後で先輩から聞いて励まされました。机を前に座るような場所でもないのに自然とメモをとる手が動いたのは、社会調査の勉強をしたからでしょう、というのが彼女の弁です。それを聞いて、日ごろ何かと自信を失いがちな私は、素直に嬉しく、勇気づけられました。基本的で目立たないことかもしれないけれど、そんな形で学んだ人に残るのであれば、質的調査法も捨てたものでないかもしれません。

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