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『ネオ・ファウスト』1&2 手塚治虫 (講談社)

ネオ・ファウスト1

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ネオ・ファウスト2

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 手塚が三度試みた『ファウスト』の漫画化の最後で、絶筆作品の一つでもある。

 亡くなる前年の1988年1月から「朝日ジャーナル」に連載をはじめ、同年11月11日号で第一部が完結している。一ヶ月あけて12月9日号から第二部にかかったが、第二回で中絶した(講談社版全集下巻は第二部の最後に七頁目までできていた第三回の絵コンテを掲載し、「あとがきにかえて」には同年9月に朝日カルチャーセンターでおこなった講演から本作に関する部分を抜粋している)。

 今回の舞台は学園紛争で騒然としていた1970年の日本だ。ファウストにあたる一ノ関博士は70歳の老学究で、メフィストはヒッピー・ファッションに身を包んだ妖艶な美女である。マルガレーテにあたるまり子は博士の大学の学生で、兄が公安刑事なのに学生運動に心を寄せているが、坂根という得体の知れない助手とつきあっている。

 死の前年に描きはじめられたとは思えないくらい力のこもった出だしで、まり子もメフィストも色っぽく描かれている。一ノ関博士の貫禄もなかなかのものである。

 博士はスト中の大学の研究室で、あと30年生きられたら宇宙の真理を解き明かせるのにと嘆くが、そこにまり子に化けたメフィストが登場し、博士に余命が5分しかない、宇宙の真理が知りたければ今すぐ契約書にサインしろと迫る。

 博士は5分で死ぬなら真理を知ったところで無意味だ、それくらいなら20歳に若返らせろと条件をつける。メフィストは承諾する。

 契約が成立するやメフィストは博士を股にはさんで時間をさかのぼり、博士が20歳だった1920年に向かうが、博士が暴れたために1964年に不時着し、それからすこし先に進んで1958年4月1日に落ち着く。

 1958年4月1日は売春防止法が施行された日である。メフィストは閑散とした赤線に博士を連れていき、最後の稼ぎをしようとする売春婦に老いた身のまま挑ませ、敗北感を味わわせる。老いのつらさを思い知った博士は胎児の黒焼きから作った怪しげな若返りの秘薬を飲み干すが、薬が強すぎたために若返えったはいいが、すべての記憶を失ってしまう。

 こうして20歳に若返った博士は1958年以降の昭和史を別の人間として生きなおすことになるが、別の人間というのが1970年のくだりで登場したある人物で、タイムパラドックスものの趣向をとっている。

 1958年から1970年にかけての日本は高度成長期だったから、いくらでも話を膨らませることができたはずだが、未発に終わった東京湾干拓事業が出てくるくらいで、あっさり1970年までもどってしまう。第一部の後半は明らかにストーリー展開を急いでおり、前半の緻密さがなくなっている。手塚に時間があったら、話がもっと広がっただろう。

 第一部と第二部の間の一ヶ月間のブランクは手塚が胃癌で倒れ、緊急入院した時期にあたるようだ。入院中は危篤状態になったとも伝えられているが、そんな状態にもかかわらず第二部を開始した手塚の漫画に賭ける意欲には脱帽するしかない。

 「あとがきにかえて」には、ギリシャ神話の世界にはいっていく条を地球の歴史を古生代から地球誕生へと遡行していく旅におきかえるという構想が明かされている。この構想が実現していたら『ネオ・ファウスト』は『火の鳥』に匹敵するスケールをもちえたかもしれない。かえすがえすも残念である。

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