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『ケータイ小説的。』 速水健朗 (原書房)

ケータイ小説的。

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 ケータイ小説のブームは2006年の『恋空』をピークに鎮静したが、現在でも固定ファンに支えられて結構な部数が出るという。落ちつくべきところに落ちついたということか。

 わたしはケータイ小説には興味はなかったが、佐々木俊尚氏の『電子書籍の衝撃』に活字に縁のなかった地方のヤンキー層が活字の面白さに目ざめたのがあのブームだったと指摘してあるのを読んで、なるほどそういうことだったのかと思った。

 ただ、あまりにも腑に落ちすぎる指摘だったので、本当にそうなのか確認したくて関連本を読んでみることにした。

 まず手にとったのは同じ佐々木氏の『ケータイ小説家』(小学館)だが途中で放りだした。

 『恋空』の美嘉氏をはじめとする十人のケータイ作家のルポルタージュ集だが、ケータイ小説そのままの文体で書いてあるのである。対象となる作品のさわりが引用されているが、引用と地の文の区別がわからなくなるくらい似せてある。

 文芸批評には擬態ミメティック批評という手法があるが、擬態批評として成功しすぎたためにこの本はケータイ小説の短編集のようになってしまい、ルポルタージュとして破綻している。固有名詞はほとんどなく、抽象的な葛藤や罪や苦悩が語られるだけで、個人も家庭も情景も見えてこない。パラパラめくったら最後まで同じ調子だった。

 次に手にとったのはケータイ小説をいち早く一般読書界に紹介した本として有名な本田透氏の『なぜケータイ小説は売れるのか』(ソフトバンク新書)である。

 ケータイ小説の沿革から特質、Yoshi氏の果たした役割まで手際よく紹介してくれているが、途中からケータイ小説に肩入れしはじめ、伝道師のような熱っぽい口調に変わってくる。

 では心底ケータイ小説をリスペクトしているのかというと、そうは読めないのである。本田氏はパソコンでインターネットに接続するPC人種と携帯電話で接続するケータイ人種を対比し、PC人種は頭が良く自意識が発達しているので物事を相対化してニヒリズムにおちいるが、ケータイ人種は紋切型の物語に「安い涙」を流して癒されて幸福になると、妙な論法でケータイ小説の読者を持ちあげている。本田氏のいうケータイ人種とは要するにヤンキーのことであるが、ヤンキーは素朴で単純だから見え透いたフィクションを「実話」と思いこんで感動するのだと言っているに等しい。大衆小説とは呼ばずに「大衆芸能」と呼ぶのも誉めているのかバカにしているのか。

 改行の多さを余白の美学で救おうとしたり「大きな物語が失われた」などと牛刀理論を持ちだしたり、あの手この手でケータイ小説を評価しようとしているが、心の底からケータイ小説を楽しめないインテリの自分を言い訳しているようにしか読めなかった。

 佐々木氏も本田氏もケータイ小説の担い手を地方のヤンキーと見る点で共通しているが、ヤンキーをバカにしてはいけないというインテリの贖罪意識のゆえか、無理なケータイ小説礼讃を自らに強いる結果になったという印象を受けた。

 三冊目に手にとったのは速水健朗氏の『ケータイ小説的。』だが、これは目さめるような論考である。

 速水氏もケータイ小説の担い手がヤンキーだという見方を踏襲するが、ヤンキー集団は無文字社会ではなく、特有のテキストの蓄積があるという事実を指摘し、ケータイ小説の背後に広がる間テキスト性の多層的な網の目に光をあてている。

 それは浜崎あゆみの歌詞であり、『NANA』や『ホットロード』のような少女漫画であり、赤木かん子氏が「リアル系」と名づけた不幸表明ノンフィクション群であり、おびただしいヤンキー雑誌やレディース雑誌である。『恋空』をはじめとする一時期のケータイ小説浜崎あゆみの本歌どりになっていて、浜崎あゆみの本歌を知らなければ何が書いてあるのかさへわからないという指摘には蒙を開かれた。ヤンキーにはヤンキーの活字文化があったのだ。ケータイ小説とは膨大なヤンキー・テキスト群の突端部だったのである。

 ケータイ小説にレイプや不治の病が「実際にあった話」というふれこみでお約束のように登場することについては虚言癖という極論を含めてさまざまな議論があるが、速水氏は『ティーンズロード』という投稿誌に掲載される手記群との関係に注目する。こうした手記も「実際にあった話」と語られているが、実態は誇張された不幸自慢であり読む方も最初からわかって読んでいるという。不幸自慢テキスト群と切りはなしたらケータイ小説の「リアル」を見誤ることになる。西原理恵子の「自伝」作品群も同じ文脈で読んだ方がいいだろう。

 新谷周平氏が発見した「地元つながり」の輪とフリーターの関係も目を開かれた。地方には東京と電車を忌避する「地元つながり文化」が厳然と存在し、その相互扶助の輪につながっている限りフリーターでも生活していけるのだという。フリーター=失業=転落は東京の発想で地方では違うというわけだ。ケータイ小説は「地元つながり文化」が電子書籍という新しいチャンネルを得て噴出しはじめたということでもあるらしい。

 佐々木氏は自作が百万部を越えるベストセラーになったのに上京も小説家になることも考えないケータイ小説家に感服しきりだったが、「地元つながり文化」に照らせばありがたがるほどのことではない。

 速水氏は2005年5月のあるエンターテイメント小説とあるケータイ小説都道府県別販売数の比較をしているが、エンターテイメント小説が東京が突出して多く(全売上の20%以上)、神奈川、愛知、千葉とつづくのに対し、ケータイ小説は愛知が一番多く、福岡、兵庫、北海道、静岡とつづき、東京はようやく6位にすぎない。しかも読書家の集まる都心の大型書店やPCユーザーの多いアマゾンではまったく売れない代わりに、幹線道路沿いに展開するTSUTAYAやGeoのような郊外型複合書店でよく売れている。こうした場所がヤンキーの「地元つながり」文化圏と重なることはいうまでもない。

 残念なことに速水氏でさへも最後にはインテリの贖罪意識に走ってケータイ小説を「被差別文化」と擁護しはじめ、「旧弊社会の側から、これは俗悪で程度の低いもの」と決めつけられるという「何度も繰り返されてきた歴史」に話をもっていくが、さてどうだろうか。

 推理小説やSF、漫画、アニメは「俗悪で程度の低いもの」と決めつけられた歴史をもつが、推理小説には江戸川乱歩、SFには小松左京、漫画とアニメには手塚治虫がいた。乱歩も小松も手塚も第一級の知識人であって、その作品は時代が変わっても読みつがれている。ケータイ小説は乱歩も小松も手塚も生みだしてはいない。ケータイ小説は所詮投稿欄の延長にすぎず推理小説やSF、漫画、アニメと肩をならべる日が来ることはないだろう。

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