『<small>哲学の歴史 07</small> 理性の劇場』 加藤尚武編 (中央公論新社)
中公版『哲学の歴史』の第7巻である。このシリーズは通史だが各巻とも単独の本として読むことができるし、ゆるい論集なので興味のある章だけ読むのでもかまわないだろう。
本巻は18世紀後半から19世紀にかけて隆盛したドイツ観念論をあつかう。カント、フィヒテ、シェリング、ヘーゲルと巨峰が連なり哲学史の中でもひときわ高く聳える山脈を形成している。
ドイツ観念論の研究者は偏屈な人が多いのか、編者の意図といい意味でも悪い意味でもはずれた原稿が集まった印象がある。
いい意味ではずれたのはヤコービ兄弟をあつかった「自然と言語の百科全書」というコラムである。コラムであるから編者はヤコービ兄弟にそれほど重きを置いていなかったはずだが、章に昇格させていいくらい充実した内容で、ヤコービ兄弟が哲学史において重要な役割を果たしたことを教えてくれた。
ゲーテに一章割かなかったことは惜しまれる。ゲーテをはずしたのは編者のこだわりかもしれないが、どの章でもゲーテに言及しており、せめてコラムとしてでもとりあげるべきではなかったか。
不満はないではないが、要となるカントとヘーゲルの章が読みごたえがあるので本シリーズ中でも屈指の巻となっている。
「総論 カントとドイツ観念論」 加藤尚武
編者はドイツ観念論は俗称であり、理想主義であるとか「デカルト以来の自我中心主義がヘーゲルで絶頂を迎えた」といった従来の見方を廃棄するものの、ドイツ観念論というまとめ方を否定しているわけではない。カントの存在はあまりにも大きく、ドイツの哲学者はカントが残した課題の解決を迫られていたと見るからだ。
その課題を編者は三つに要約する。
- 主観性と客観性の根源的統一はいかにして可能か
- すべての学問分野を統合する原理は何か
- 神に対応する理性的な「絶対者」の概念はどのように把握されるか
この三つの課題をめぐってドイツの哲学者は半世紀にわたって悪戦苦闘するが、そこに陰に陽に顔を出すのがスピノザである。ドイツ観念論においてスピノザの存在はデカルトより遙かに大きい。
「Ⅰ ヴォルフとドイツ啓蒙主義の暁」 小田部胤久
ヴォルフはドイツ講壇哲学の大成者とされるが、カントの引き立て役としてしか名前が残っておらず一冊の邦訳もない。そのヴォルフを紹介した貴重な文章である。
ヴォルフは1679年1月24日ブレスラウに生まれた。マクダレーネン・ギムナジウムで学んだが、ルター派とカトリックの反目を目にして数学の確実な証明に心を向けた。
1699年、神学を学ぶためにイェーナ大学に入学しデカルト哲学と出会う。ライプツィヒ大学に移った後、1703年「数学的方法によって書かれた普遍的実践哲学」で教授資格を取得。1706年ライプニッツの推挙でハレ大学の数学自然学教授になる。
ハレ大学は1694年にドイツ語で講義することを提唱したトマジウスが中心になって創設された大学である。トマジウスは哲学に数学的方法を用いることに反対していたので、ヴォルフはライプニッツの忠告にしたがい哲学の講義をおこなわなかったが、1709年からドイツ語で哲学の講義をはじめる。ヴォルフは講義の成果をつぎつぎにドイツ語で刊行したが、体系性と平明な論理が歓迎され彼が作ったドイツ語の術語が広まっていく。
しかしハレ大学で支配的だった敬虔主義から決定論・無神論ではないかと批判され、1721年には「中国人の実践哲学」という講演が槍玉にあげられる。1723年プロイセン王フリードリヒ・ヴィルヘルム一世は「勉学中の若者に多大の損害をもたらす教えを述べた」としてヴォルフに国外退去を命ずる。ヴォルフはヘッセン=カッセル方伯の招聘でマールブルク大学に移る。
1728年からはラテン語著作の公刊をはじめ、ドイツ語圏以外でも読まれるようになる。ディドロの担当した『百科全書』の「哲学」の項目はヴォルフの体系を祖述したものだった。
1740年プロイセンでフリードリヒ・ヴィルヘルム一世が没しフリードリヒ二世即位すると再びハレ大学に招聘される。1754年4月9日ハレで死去。76歳だった。
ヴォルフの哲学はライプニッツの説をもとにスコラ哲学に匹敵する体系をつくりあげたとされているが、本章ではライプニッツの影響や体系性にはあまりふれず(こうした面はカントの章に紹介がある)、心理学とそこから派生した美学に話を絞っている。
ヴォルフは心理学をあらわす言葉としてpneumatica、pneumatologiaではなくpsychologiaを広めた。ヴォルフは心理学を経験的心理学と合理的心理学に二分し、経験的心理学は天文学を範とした実験的哲学の一部門、合理的心理学は経験的心理学があきらかにした命題を根拠から説明する演繹部門とした。
『経験的心理学』(1732)は第一部「認識能力」、第二部「欲求能力」にわかれ、「認識能力」は下位認識能力である感性と上位認識能力である知性にわかれる。
この分類に触発されてバウムガルテン(1714-62)は美学aestheicaという学問を創始した。上位認識能力=知性に論理学があるのにならって、下位認識能力=感性を導く学問として構想したわけである。
敬虔主義者はヴォルフの心身相関論を人間から自由奪う決定論と決めつけたが、ヴォルフは心身相関論を三つの類型にわけている。
- 心身の間に因果関係があるとするアリストテレス説
- 神の働きかけで心身が同時に変化するとする機会原因説(デカルト、マルブランシュ)
- 神があらかじめ打ち立てた調和により心身が各々の本性にもとづいて自律的に変化していくという予定調和説(ライプニッツ)
ヴォルフは最後の予定調和説を採用するが、注目すべきはこの説明はあくまで合理的心理学上の仮説にすぎず、仮にこの仮説が間違っていたとしても経験的心理学において明らかにされた事柄までもが否定されるわけではないとしたことだ。合理的心理学は斬新的により正しい説明を求めればよいというわけだ。
カントはヴォルフを独断論と批判したが、当のヴォルフは独断的ではなかったらしい。
「Ⅱ カント」 福谷茂
カントは1724年ケーニヒスベルクに生まれた。ケーニヒスベルクは現在のポーランドのカリーニングラードにあたる。ドイツ騎士団が建設したハンザ同盟の港町で、最盛期でも人口は5万を超えなかったが大学と不凍港をもち、スコットランド人、英国人、オランダ人、ユダヤ人などが集住する多文化多民族都市だった。
父ヨーハンはティルジット出身の馬具職人の親方でカントはスコットランド系と思いこんでいたが、明確な根拠はない。母アンナ・レギーナはニュールンベルクからの移住者の家系だった。両親は敬虔主義の信奉者で、カントの敬虔主義の影響のもとに育った。
1732年敬虔主義者のシュルツが校長をつとめるコレギウム・フレデリキアヌムで古典語を学び、1740年ケーニヒスベルク大学に入学、恩師のクヌッツェンにニュートンを教えられる。ニュートン力学と啓蒙主義の影響で敬虔主義からは離れていった。
1746年『活力測定考』を提出して卒業。住込みの家庭教師となってケーニヒスベルクの周辺を転々とする。
1755年修士論文と教授資格申請論文を提出して私講師になり、自然哲学の論文をつぎつぎと発表して注目される。1762年ケーニヒスベルク大学の詩学教授のポストが空くが辞退する。他の大学から招聘されたこともあるがやはり辞退している。
私講師は受講者の数による出来高払いだが、自然地理学の講義に聴講者がつめかけるなどカントの講義は人気があったので経済的には困らなかったようである。
1770年ケーニヒスベルク大学の論理学・形而上学正教授になり、『感性界と叡智界の形式と原理について』を出版するが、これから『純粋理性批判』まで有名な沈黙の10年にはいる。
『純粋理性批判』は大陸合理論とイギリス経験論の綜合といわれるが、本章の著者はニュートンらの自然学の成果を懐に含むことのできる形而上学の構築と位置づけている。形而上学とはドイツ・アリストテレス主義といわれるライプニッツ=ヴォルフの講壇哲学である。
ルターがアリストテレスを憎悪したためにドイツのプロテスタント地域では形而上学が壊滅していた。ライプニッツが形而上学を復興させるために手本としたのは皮肉なことにイエズス会士スアレスがアリストテレスとトマスを近世的に再編成した「第二スコラ哲学」であり、ヴォルフが大成した講壇哲学もスアレスの体系をもとにしていた。『純粋理性批判』はアリストテレスに淵源する古い講壇哲学と、デカルト、ロック、ニュートンらの新しい自然科学的哲学を無理矢理に近い形で融合させる試みだった。そこがさまざまな解釈をうむ要因でもあり魅力でもある。
1781年にやっと『純粋理性批判』の出版にこぎつけるが、最初はまったく理解されなかった。そこで『純粋理性批判』を要約した『プロレゴーメナ』(1783)や自作自解といわれるようになる『純粋理性批判』第二版(1787)を刊行し、しだいに理解者を増やしていった。
カントは『純粋理性批判』を基礎に『人倫の形而上学の基礎づけ』と『自然学の形而上学的原理』を書きあげ、講壇哲学に対応した一応の体系を完成させるが、その後理性を主役にした独自の体系を構想するようになり『実践理性批判』(1788)と『判断力批判』(1790)を刊行する。
1796年に大学を退職するが研究と著作はつづけ、1798年には神学部・法学部・医学部の下におかれていた哲学部を他の三学部と並び立たせることを主張した『諸学部の争い』を刊行している。
1804年死去。80歳だった。カントは意外に多くの財産を残しており、「はじめて哲学で財産を残した男」ともいわれている。
カントはヒュームによって掘り崩された因果律をア・プリオリな総合判断として再建しようとしたが、本章ではそもそもア・プリオリな総合判断はありうるのかという視点から『純粋理性批判』を検討し、『実践理性批判』と『判断力批判』につなげていく。すこぶる見通しがよく、三批判をふりかえりやすい。
本章で興味深いのは遺稿について立ち入った考察をくわえている点だ。カントは亡くなる直前まで思索と執筆をつづけたが、晩年はさすがに呆け気味であり、遺稿は断片の集積だったこともあってきちんと論じた人はあまりいなかったのではないかと思う。本章の著者は遺稿を『純粋理性批判』と表裏をなすものと位置づけ、今後のカント研究の重要なトピックになるとしている。
「Ⅲ ハーマン」 栗原隆
ハーマンと聞いてすぐにわかる人はあまりいないだろう。わたしも知らなかったが、カントの友人でソクラテスの無知やヒュームの懐疑を武器に啓蒙主義の理性崇拝に警鐘を鳴らした思想家で、カントとドイツ観念論に大きな影響をあたえたという。
ハーマンは1730年ケーニヒスベルクに理髪外科医の息子として生まれた。1746年、ケーニヒスベルク大学にすすみ、カントの師であったクヌッツェンに哲学を学んだ。カントより6歳年少の後輩ということになる。在学中から『ダフネ』という雑誌を創刊し文筆活動をはじめるが、なんら資格をとることなく大学を修了する(当時は珍しくない)。
住込みの家庭教師の後、1757年リガの商会にロンドンに派遣される。商談はまとまらなかったが、ハーマンは生計の当てもないままロンドンに一年間逗留した。異国で極貧生活を送りながら聖書を読みこんだことがハーマンの思想に大きかったといわれている。
1759年『ソクラテス追想録』を刊行する。ソクラテスは啓蒙主義の英雄ともてはやされていたが、ハーマンはそれを逆手にとってソクラテスの仮面をかぶって啓蒙主義批判をおこなった。思考の手前の現実をキルケゴールに先立って実存と呼んだことも今日注目されている。
カントから子供のための自然学読本を共同で書こうという提案があるが、啓蒙主義的な教科書という趣旨に反発し断っている。この前後のカント宛書簡が残っているが、前批判期の自然学的神学の傾向を人間の有限性を忘れたと批判し、ヒュームの重要性を説いている。カントを「独断のまどろみ」から醒ましたのはハーマンだった可能性がある。
1762年『美学提要』と『愛言者(文献学者)の十字軍行』を刊行し、認識主体を対象の上に立てる科学は人間のたかぶりと批判する。啓蒙主義が斥けた聖書の美的世界や身体的比喩を肯定し、疾風怒濤とロマン主義の先駆けになったとされる。
当時は文筆活動では生計を立てられなかったのでいろいろな職を転々としていたが、1767年カントの紹介で税関に勤務するようになりようやく生活が安定する。『純粋理性批判』は校正刷りで読みいち早く書評を書いている。
1787年ガリツィン公爵夫人アマーリエに招待されミュンヘンにおもむき、デュッセルドルフに足を伸ばしてヤコービを訪ねている。1788年帰国間際に死亡。58歳だった。
はじめて名前を知った思想家だが、ゲーテが『詩と真実』で高く評価したり、ヘーゲルが長文の書評を書いたり、現代神学から注目されたりしているそうである。
つづく