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『<small>哲学の歴史 10</small> 危機の時代の哲学』野家啓一編(中央公論新社)

危機の時代の哲学

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 中公版『哲学の歴史』の第10巻である。このシリーズは通史だが各巻とも単独の本として読むことができるし、ゆるい論集なので興味のある章だけ読むのでもかまわないだろう。

 本シリーズでは20世紀を現象学と西欧マルクス主義をあつかった『危機の時代の哲学』、論理実証主義をあつかった『論理・数学・言語』、フランス現代思想をあつかった『実存・構造・他者』の三巻にわけている。言語圏別でいうと『危機の時代の哲学』がドイツ語圏、『論理・数学・言語』が英語圏、『実存・構造・他者』がフランス語圏である。

 本巻は前半が現象学、後半が西欧マルクス主義を柱としている。現象学マルクス主義ではまったく接点がないように見えるが、普遍的な真理を追求することになっていた哲学を生活世界に引きずりおろし、気遣いにせよ実践にせよ、現実との係わりあいのただ中から思考するという点では軌を一にする。実際『存在と時間』が『歴史と階級意識』に対抗して書かれたという見方もあるくらいである。

 目次を眺めた際には前半ではヤスパース、後半ではクローチェが場違いかなと思ったが、読んでみるとおさまるべきところにおさまっていた。ヤスパースとクローチェをくわえたことで現象学も西欧マルクス主義人文主義の伝統を受けついでいることがはっきりした。

 一方、「西欧マルクス主義」の系譜の中にアルチュセールをいれたのはまずかったと思う。アルチュセールラカン同様、過激な原点回帰を遂行した原理主義者であって、人文主義の伝統とは水と油なのである。

「総論 現象学と社会批判」 野家啓一

 ニーチェの発狂とハイデガーの学長就任という二つのエポックを軸に20世紀ドイツ語圏の思想史をドラマチックに描きだしており、この章だけ抜きだして読んでも面白いだろう。

 ニーチェは1889年1月3日にトリノで鞭打たれた馬に抱きつき、泣きながら昏倒して狂気の淵に陥ったが、奇しくもこの年ハイデガーウィトゲンシュタインヒトラーが誕生している。

 世紀末から20世紀初頭にかけてヨーロッパは精神の軸を失い、漠然とした不安と頽廃が世に瀰漫していた。この危機を克服するためにフッサールは一切の先入見を排して内的確実性を確立する現象学を創始した。現象学第一次大戦後のワイマール文化の中で大きな潮流となっていくが、大恐慌の打撃によってワイマール共和国はあえなく崩壊し、ナチスがとってかわる。

 この時期、現象学運動も大きな転機をむかえる。フッサールの目指した現象学は普遍的な真理の再建を目指すものだったが、ハイデガーフッサールの試み自体が歴史的に条件づけられたものだと喝破し、現象学を混乱した歴史状況を生きる生身の人間の解明に方向転換させてしまったのだ。

 1933年、ユダヤ系のフッサールは大学教育権限を剥奪されるが、その直後、ハイデガーは短期間とはいえフライブルク大学学長に就任する。

 ユダヤ系知識人の拠点だったフランクフルトの社会研究所は解体を余儀なくされ、ホルクハイマーらはアメリカに亡命する。社会研究所に籍を置いていたベンヤミンは亡命途中で進退きわまり自殺している。

 第二次大戦後、アメリカの亡命していたホルクハイマーとアドルノはドイツにもどり社会研究所を再建し、共著の『啓蒙の弁証法』で啓蒙の自己崩壊を指摘し、文化産業によって支配された大衆文化を告発するが、フランクフルト学派第二世代のハーバーマスはそこにニヒリズムを見てとり、理性の再生をはかるべきだと訴える。

 20世紀は激動の時代だったが、哲学もその激動のただ中で苦闘していたのである。

「Ⅰ ブレンターノ」 村田純一

 ブレンターノはフッサールの師として広く知られているが、著作は昭和初年に何冊か邦訳されたものの、現在ではほとんど入手できない。1970年に中公版『世界の名著』のフッサールの巻に短い論文が併録されたが、これも今は絶版である。

 欧米でも事情は同じで、知名度にもかかわらずブレンターノはなぜかまったく読まれておらず、「ブレンターノ・パズル」という言葉まであるそうである。

 つまらない学者だったのかというと、そうではないらしい。第二次大戦前にはブレンターノ学派が活動していたし、論理実証主義者の拠点だったウィーン学団の宣言文には論理実証主義の先駆者としてブレンターノの名前があがっている。ブレンターノは現象学のみならず論理実証主義の源流でもあったのだ。

 なぜブレンターノは忘れられてしまったのだろう。著作よりも講義で真価を発揮するタイプの学者だったことや、晩年失明して集大成的な著作が書けなかった事情も影響しているようだが、ブレンターノが活躍の場とした中欧ハプスブルク文化が第二次大戦で解体してしまったことが一番の理由らしい。独仏で発展した現象学と、英米で発展した論理実証主義は無関係のように見えるが、実はどちらもハプスブルク文化という土壌から同じ時期に生まれていた。ブレンターノは現象学論理実証主義を育んだハプスブルク文化の申し子だったのだ。

 ブレンターノは1838年ライン河畔の方のマリーエンブルクでイタリア系カトリックの名門に生まれる。ミュンヘン大学などで学んだ後、1862年に『アリストテレスにおける存在者の多様な意義について』で博士号を取得する。ハイデガーアリストテレス研究からはじめたことは木田元によって知られるようになったが、アリストテレス存在論という視点をハイデガーに教えたのはこの論文だといわれている。

 1864年カトリックの司祭になり、1866年には『アリストテレスの心理学』で教授資格をとる。ヴュルツブルク大学で教鞭をとるにあたり自らの基本テーゼを発表したが、その第四テーゼ「哲学の真の方法論は自然科学の方法にほかならない」はドイツ観念論を批判し、哲学も厳密な科学的方法にもとづかなければならないことを主張したもので、現象学論理実証主義の魁といえる。

 ただしブレンターノのいう「自然科学」とは近代科学のことではなく、アリストテレス哲学のことだった。ブレンターノは晩年に哲学的立場を変えるが、いずれの場合もアリストテレス研究の深化がきっかけとなっている。

 ヴュルツブルクでの講義は講評を博すが、教皇不可謬性のドグマを受けいれることができず還俗して教職を辞し、研究に集中するようになる。

 1874年、ブレンターノは主著とされる『経験的立場からの心理学』を上梓する。ここではアリストテレスの『霊魂論』にヒントをえて志向的内在という概念を打ちだしており、フッサール現象学の着想をあたえることになる。

 この年ブレンターノはウィーン大学の教授に就任するが、1879年に結婚したために司祭についていた者の結婚を禁ずるオーストリアの法に抵触し、辞職を余儀なくされる。教授職への復帰を望んで私講師の身分のまま教壇に立ちつづけるがついに望みはかなえられず、1895年にイタリアへの移住を決める。

 ドイツ時代はペガサスのような抽象的存在者を対象とする心のあり方を分析していたが、1905年を境に立場を大きく変え、普遍者や抽象的存在者の排する「もの主義」reismの立場を打ちだすようになる。

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