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『対人恐怖』内沼幸雄(講談社現代新書)

対人恐怖

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羞恥の発掘

 今回の枕の一冊は、”Seeing and Being Seen: Emerging from a Psychic Retreat” (John Steiner, Routledge, 2011) 。防衛の牙城に引き籠る心的事態(Psychic Retreat)の解明に勤しんできたシュタイナーの第二作だ。日本でも、『見ることと見られること-「こころの退避」から「恥」の精神分析へ』(岩崎学術出版社、2013)というタイトルで翻訳出版されている。フロイトメラニー・クラインの血統を示す、著者の存在証明の書という印象を受けた。妄想分裂ポジションと抑うつポジションというクラインの発達シェーマを基盤に、エディプス・コンプレックスをはじめ、同業者内ですら悪名高い「死の欲動」を読み直していることが目新しく、臨床例で肉づけされていて読み易い。精神分析界のキーワードが罪(GUILT)から恥(SHAME)へとシフトして久しい(所詮は流行なのだ)なかで、遅れをとっていたクライン派が、恥概念の読解に取り組んだという貢献も評価される。

 だが、恥の研究といえば、内沼幸雄氏を忘れてはならない。対人恐怖の研究を軸に、二大精神病・パラノイアを論じてきた内沼氏は、真摯な研究家の例に漏れず、疾患から人間一般にいたる存在論へと考察を深めてきた。著作の大半が専門書とあってか、現在も再版されているのが、本書『対人恐怖』に限られているのは忍びない。しかし、近年の出版事情にあって、1990年出版の本書が今なお再版され続けていることは、『対人恐怖』が不易な課題と思索を提示していることの証左にほかならない。

 本書は、新書という体裁やタイトルからも想像できるように、対人恐怖に悩む読者が手にとる機会が多いのかも知れない。このたび、思いつきで講談社のサイトを確認してみたところ、案の定、悩める読者をターゲットとしているかの紹介を目にした。確かに、出版社の意図に沿って、対人恐怖の説明と治療に焦点を据えて書かれてはいる。けれども、巷に繁生する安易な対策本とは、混同するなかれ。本書には、著者の人間観・日本文化論といった哲学が沁みこんでいるし、臨床面からも見ても、ドイツ精神病理学森田療法精神分析の鉱脈に触れることができる。それぞれの理論・技法への批評精神を持ちながらも、けっして戦闘的でなく、良し悪しを咀嚼する分別を持ち、自分の領分をわきまえつつ持論を進化させている著者の思想に出遭える一冊だ。

 『羞恥の構造-対人恐怖の精神病理-』をはじめとする諸作に見られる厚い思索の層から、ここまでコンパクトな一般読者向けの一冊を創出するのは、想像以上に困難な作業である。にもかかわらず、思想の骨格をきっちりと伝え、抽象を具体におとす手続きを怠らず、端正に仕上げている。専門書バージョンよりも硬さのほぐれた文体は、伸び伸びと直裁で、良識に支えられたバランスの妙にも、著者の哲学の一端を見る思いがする。

 さて、対人恐怖とは、対人関係の葛藤そのものが症状として結晶化したものである、と著者は説く。葛藤とは、自己と他者の狭間を揺れる不安にほかならない。自己本位vs.他人本位、我執vs.没我、自他分離vs.自他合体、などなど用語は何であれ、二極に引き裂かれる難儀を覚えるのは病者に限らない。漱石に拠れば、「智に働けば角(かど)が立つ。情に棹(さお)させば流される。意地を通せば窮屈だ。兎角(とかく)に人の世は住みにくい」である。

 著者の主眼は、この二極の中間地帯であるところの「間」にある。近年の精神分析でもてはやされる対人関係論でいうところの「関係」とは、似て非なる概念である。赤子が「人見知り」で感じとるものは、この「間」であり、そこに羞恥のはじまりがある。母子一体(没我)でもなければ未だ個体(我執)でもない赤子が、他者に直面して覚える困惑に、著者は対人恐怖の萌芽を見出し、かつ人間存在の枢要を読み取っているのだ。

 対人恐怖は、赤面恐怖→表情恐怖→視線恐怖へと症状変遷する、と著者は指摘する。臨床観察に基づいた変遷の源流に、人見知りという万人に共通の現象を添えて、羞恥→恥辱→罪という倫理変遷を加えたものが、著者独自の人間理解のシェーマである。羞恥と恥辱の差異に留意したことに慧眼がある。さらに、「間」に戸惑うこころ-羞恥-を、克服すべき事態とは見なさず、むしろ尊重する観点こそが、著者の思想の根本である。「羞恥は愛と倫理の接点であり、それらを超えゆく体験である」とは、『対人恐怖の心理』で表明された著者の言葉だが、この背景には、欧米における恥の考察では、「羞恥への視座が欠落し、つねに無力の意識としての恥辱が強調されているのを特徴とする。これに対して罪は力の意識と関係づけて論じられる」(上同書)との視点がある。

 端的には、対人恐怖の治療は、上記変遷の根幹であるところの「間」の意識を育て、治療の場でも率先して「間」を作っていくことにある。詳細は本書に当たって欲しいが、個の達成を促す西洋化された治療にはない、独自の方向性であることは強調されて良い。もっとも、この方向性は、実は多くの日本人臨床家が企まずして為していることにも思える。著者の成果は、その営為の背景にある文化的装置の解析と臨床とのあいだに理論的架橋を設けたことにある。内沼氏の提唱する「間」の治療は、極めて日本的かつ独自の治療理論であり、深甚な問題提起でもある。特に、精神分析とのあいだには看過できない懸隔がある。精神分析を生業とする専門家であれば、内沼氏の羞恥の発掘を改めて参照し、省察の機会として欲しい。

 

 ともあれ、一般読者を対象にしているとはいえ、尽くせぬ課題を投げかけてくれる一冊である。


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