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『良い支援?』寺本晃久、末永弘、岡部耕典、岩橋誠治 (生活書院)

良い支援?

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「”たいへんな人”の自立生活っ?」

昨日、中野サンプラザでJALSA講習会が行われた。富山県から患者会研究の伊藤さんも参加され賑やかな会になった。


 うちの患者会では年に一度、有志が集まってこのような勉強会を開いてきたが、年々大きな行事になり資金集めも企画も大変な仕事になってきた。

 まだ新しい支部がホストになると丸一年間かけて全国からゲストを迎える準備をする。これが支部の結束を固め支援者の機運を盛り上げる。それに呼吸器をつけた人も新幹線や飛行機でやってくるから、医療体制も万全になる。来年は広島県支部がホストだ。それで支部の人たちが視察も兼ねてたくさん参加していた。

「思いついたらすぐ実行しなくっちゃね。何年も時間かけられないし。」

来年の話をすると鬼が笑うというのなら、私たちの周囲ではたくさんの鬼が笑い続けているはず。来年には仲間の命がないかもしれないから。楽しいことは思いついた途端にしなければ意味がない。だから支援にも超スピードが要求される。でも人生の刹那を楽しめるALSの人が好きだから、みんなも頑張れるのだと思う。

  ただ、私にはまだどのような支援が良いのかわからない。そもそも、相談とか支援とか胡散臭いとさえ思っている。それが上流から下流に向かって流れるように行われる時、圧力になる可能性のほうが大きいと思っている。システム化された支援ほど害悪になるものはないから。

  昨日の話はもちろんそういう話ではなかったが。講師を務めた植竹日奈さんは『人工呼吸器をつけますか?』の著者のひとり。MSWにピンとくる人のほうが少ないだろうが、病院勤めのソーシャルワーカーのことである。他にも何人かMSWが参加して、それこそ丁寧に参加者の話を聞いてくれていた。初対面でも優しく傾聴し、相談者に自分で答えを引き出させるのが彼らの得意技だ。ただし、現実にないものを紹介してくれるわけではない。良い未来は相談にくる患者や家族が自分で作るものだから。

     ***

 

 少し前に悲しい事件があった。東金の幼児の遺体遺棄事件だ。そしてさらに悲しいことにしばらくして容疑者が明らかになったが、それは知的障害をもった青年だった。画面いっぱいに映し出された屈託のない笑顔。それは、大人の体に子供の心が住んでいることを語っていた。容疑者が知的障害者だというそのことよりも、報道の配慮のなさのほうに私は驚いた。これではまるで「こういう人には、気をつけましょう」だ。日本中の母親たちにステレオタイプな反乱が起きなければよいが。そして、死んでしまった子と死なしたと言われている子の親のことが気になってきた。

かわいい盛りの子どもを奪われた親の気持ちなど到底理解できるものではないが、テレビ画面いっぱいの容疑者と言われた者の笑顔。人殺しと呼ばれてもなお笑っているのだ。

私は彼の家族のこれまでと、これからの苦労を思い描いていた。地域で暮らす子を持つ親の不安も理解してもらえなかったのではないだろうか。これは大変なコミュニケーション障害である。だから、このような事件があるとなおのこと、いつでも危害を及ぼす危険な動物のように、施設収容だけが解決策のように思われてしまうだろう。

 彼の親子関係は立体的に報道されたが、この家族を取り巻く社会は見えてこなかった。

 『良い支援』。皮肉なタイトルだなあと思う。だから「?」がついているのか。納得。

寺本晃久、末永弘、岡部耕典、岩橋誠治の共著で、知的・精神障害を持ちながら地域社会で暮らす人たちや身内の支援の生生しい体験が綴られている。

知的障害・精神障害の自立生活とは何か。自分で書いたり語ったりできるけっこう多弁な重度身体障害者の運動と比べて彼らの運動の歴史はこれまでほとんど語られてこなかった。したがって障害者の自立といえばまず自己決定で、それができなければならないように言われてきた面があるが、知的精神に障害のある彼らにはその自己決定が難しい。

そのような人たちが、親元や施設を出て暮らすこと自体が無茶だ、危険だと思われている。しかし、そもそも自分で決め自分を治する生活ができる人だけが、地域社会で生活する資格があるといえるのだろうか。

本書の中でも、常識破りの奇行が繰り返され周囲の人たちが振り回される。近隣住民の白い視線に晒される。急激な環境変化についていけず、パニックに陥った身体は破壊的な力を放出する。だから些細な刺激にも反応してしまう知的や精神の障害にも、日常的にそばで見守る人が必要なのだ。奇行に体ごと寄り添うと、それらの行為にはそれなりのワケがあることがわかってくる。自分で決められない人、自己表現ができない人が本当は何をしたいのか、本当はどう感じているかを引き出す「支援」の在り方が具体的に語られている。

ただし、そういえばまた施設に入れば済むだろうという話に舞い戻ってしまう。これはどのような障害も同じだ。そしてまた、誰にでもできそうな見守りという介助に一定の税を配分することも理解されにくい。

後期高齢者終末期相談支援料に自立支援法の相談支援専門員。国の審議会や検討会では、矢継ぎ早に支援の必要性が強調されだした。そして、そのたびに私たちは霞が関に飛び出していくことになった。弱者のための相談支援の必要性が医療機関にも理解されてきたのはうれしいことだが、その支援の在り方の具体的な中身がこれまで何年も問われ続けてきたのである。繰り返すが、システム化された支援は本人にとっては害悪でしかない。

むしろ、何も知らない無資格者が付添い見守り観察しつづけ自問することによって作り出される二人の関係性、「その世界にひたっていく」(p42)ことが良い支援の始まりなのだと本書は教えてくれている。


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