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『障害受容再考――「障害受容」から「障害との自由」へ』田島明子(三輪書店)

障害受容再考――「障害受容」から「障害との自由」へ

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 この土日は、京都の立命館大学で開催された障害学会第六回大会に参加していた。私はALS関連のポスター報告3題にただ名前だけ連ねて報告はせずに済んだので、とても気楽で、大半の時間を図書販売の手伝いをしながら、ロビーの片隅で通行人を呼び止めては世間話に花を咲かせていた。


学会ではロビーイングに意味があるのだ。特に私のように研究者でもなく、障害当事者でもない者にとっての学会とは、イケてる学者に出会える絶好の機会である。誰がどこの大学でまっとうな研究をしているのか。患者にとっての使えそうな若手研究者はどこにいるのか。研究者でなくても元気な当事者でもいいし、記者や編集の人だっていい。切れ味のよさそうな、見込みのありそうな人に逢い、情報を収集または提供し、ネットワークを広げ、研究者を増やすのである。

 

医療や福祉の領域での障害者や病者の扱われ方とは違った眼差しを、私たちは障害学に期待している。もちろん、「難病」といわれてきたような難治性疾患を、障害という概念メガネを通して見直すことが医療専門職にとってはかなり難度の高い試みであることはわかっている。

 でも専門職にとって、当然の作法といわれてきたようなことを改めて問い直し、業界のあり方まで見直すことは、「専門家被害」にあっている当事者のためにこそ重要な作業なのだ。 私たちの大学院には、特定の業界に長年いながらも、そこで使われるコトバや作法に懐疑的になってしまい、それで、対岸からの研究を志した人がたくさんいる。この本を執筆した田島さんもそのひとりで、作業療法士(OT)として長年東京都の身体障害者施設で働いてきた。昨年より吉備国際大学保健科学部作業療法学科専任講師として、岡山に転居している。

 立命館大学大学院先端総合学術研究科に入院したのは2004年。田島さんと私とは同期生で、同じ東京の遠隔地・有職者院生として、東京で自主研究会をしてきた仲間だ。

 田島さんはリハビリの現場で当たり前のように使ってきた「障害受容」という言葉にひっかかりを覚え、疑問を持ってこの大学院にきた。そして、コツコツと障害受容の言説を集め、クライエントや仕事仲間にインタビューしてきた。昨年は「地域リハビリテーション」(三輪書店)という雑誌に調べたことを連載していた。そして、修士論文とその雑誌の内容をまとめたのが、この一冊である。

「「障害受容」という言葉の使われ方の不快さをその言葉の使用から垣間見られるセラピストとクライエントとの関係の非対称性に着目しながら考えてみることに」(p9)した田島さんは、70年代以降の文献から障害受容の使われ方を調べ上げ、その論調の変化にも着目した。そして、70年代から80年代の「障害受容」の使用の変遷から、クライエントにとっての「障害受容」の問題が、セラピストにとっての「訓練の流れ図」的な適応問題にすり替えられてしまっていることを、鮮やかに論証したのである。そして90年代以降には、障害受容を様々な固有の問題から批判する言説が登場したとして、実際のセラピストへのインタビュー調査からその萌芽を示している。  

 本書はたいへん丁寧に障害受容をめぐるセラピストとクライエントとのやりとりを分析しているのであるが、一定の訓練を受けてきた専門家セラピストに対して、クライエントのありのままの「受容」を求め、「できないこと」を肯定するという離れ業を求めているともいえるだろう。

 次世代を担う専門職に、病いのありのままを肯定することによって得られる「障害との自由」が、業務上でも当然の目標となる日を願う私の気持ちは、田島さん以上に強いのかもしれない。

 しかし、障害というものが、そもそもクライエントの自由を阻害するものとして存在してきた以上、障害を自由をもたらすものとして理解し直すことは、何度も言うが、専門職にとっては天地を逆にするようなものであろう。

 だから、本書が投げかけているエール、「再考」に多くの若い専門職が反応し、自分との絶対的な他者であるクライエントとの関係性に新たな快を発見しようとしてくれればいい。謙虚な田島さんは決して「べき論」を論じることはしない。「再考」してほしい。ただそれだけをいいたくて、後続の専門家たちのために本書を刊行されたのだ。


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