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『整体。共鳴から始まる 気ウォッチング』片山洋次郎(筑摩書房)

整体。共鳴から始まる 気ウォッチング

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「「気と共鳴」=「自然」?」

 1994年刊『気ウォッチング』(日本エディターズスクール出版部)に加筆、再編集をしたものの文庫化。


 野口整体の考えに基づき、自らの整体法を確立した著者が、整体における「気」と「共鳴」を手がかりに、現代人の身体と心のありようをとらえる。

 著者を知ったのは、書店にならぶあまたの美容・健康・ダイエット本のなかからみつけた『骨盤にきく』(文藝春秋)によってだった。

 「気持ちよく眠り、集中力を高める整体入門」というサブタイトルと、著者が野口整体の流れをくむ整体師であるというのがこれを手にした理由で、そこで知った骨盤の調整法や呼吸法にはいまでもお世話になっている。また、骨盤の収縮と弛緩、これに連動する身体と心のしくみを知ることによって、自分の心身の不調にも、あまり振り回されることがなくなったようだ。

 『骨盤にきく』は、いわゆる「骨盤ブーム」のなかで出された女性向けの整体入門書だが、本書はより詳しく、「気」と「共鳴」とは何かにはじまり、背骨とヒトのエネルギーと心身の症状の相関関係や各種「体癖」について、「気的」視点からみた近代的自我や家族、また日本文化についてなどが語られる。

 キーワードとなる「気」と「共鳴」だが、著者はまずはしがきにおいて、「気」について、「とりあえず『不思議なパワー』扱いだけはしないということを前提としておきましょう。」とことわりを入れ、つづけて「日本語のなかの日常語としての『気』と考えれば大体間に合いそうです。」と書く。

 「人と人、人と動物、あるいは人とモノでもその間に何らかのつながり、連続性、浸透性を実感する瞬間があ」り、「この共鳴する作用あるいは働き合う意思を“気”と呼びたい。」

 「気はエネルギーそのものと考えるよりも、存在と存在の間のつながり、関係としてとらえるべきである。」

 このように、著者は「気」についてことばを尽くしくりかえし語るが、その文字を追って頭で理解しようとするよりも、たとえば「気が合う」などのように、ふだん何気なく口にしていることばでだれもが了解しているその「気」が「気」であるのだといわれるほうがすんなりと納得がいく。

 さて、「気」とともに語られる「共鳴」であるが、本書でいう「共鳴」とは「気」とつねにともにある。よく、漢方では「気が滞る」といい、その結果として身体に何らかの症状があらわれるとされるが、それとはすこしニュアンスが異なるようだ。まずはじめに「気」があり、そしてそれが「共鳴」する、というのではなく、乱暴にいえば、「気」は「共鳴」であり、「共鳴」は「気」であるとでもいうような感じだろうか。ふたつは分け隔てのないものとしてある。

 本書からしばしば思い出されたのは、柳父章『翻訳の思想 「自然」とNATURE』(ちくま学芸文庫)だった。これは、西欧語“nature”の翻訳語に「自然」という語が定着することによって、あるいはその課程で、もともとの日本語である「自然」と、“nature”の翻訳語としての「自然」の意味のずれを、文学者や評論家の文献をもとに追い、近代日本人の西欧文化の理解と誤解の軌跡をたどったものである。

 『翻訳の思想』によれば、西欧の“nature”は自己とは切り離されたもので、自己と自然は主体と客体という関係にあるが、そもそも日本人にとっての「自然」は、そうした主客の境目があいまいなもの、自己もまたそこにふくまれてあるものとされる。この両者の混同に、翻訳語としての「自然」をめぐる、日本人の西洋文化受容のねじれが生じることになる。

 それはさておき、そうした日本人の「自然観」は、近代以降を生きる私たちにも思いあたるところがあるのではないか。それは理屈でなく感覚的なもので、「気」というのはいわゆる日常語でいうところの「気」だといわれ、ああそうかと了解はしても、いざことばで説明しようとするとむずかしい、というのにちかい。あえていうなら、それはたとえばTVのハイビジョン映像で眺めることのできるような「大自然」=“nature”に対するものではなく、いまこうして空調の効いたマンションの部屋でPCに向かっている私をとりかこむなにか、に対するある感覚のようだ。

 そこで、本書における「気」と「共鳴」なのである。

 「『気が合う』のは意識や意図以前に『合って』しまうのであり、『気が付く』のも意図的発見ではなく、『思わず』自然発生的に立ち現れるのであり、『気持ちいい』も心持ちのことであり、身体そのものの気持ちいいとしか言いようのない感覚でもあり、居場所(環境)そのものの気分のよさでもある。意識-身体-環境のどこにも主体があるともいえるし、どこにも主体がないともいえます。この身体の内側から沸き上がり、のびのびと“何か”(=気)が世界に広がることが、深く息をしているということであり、安心感そのものであり、良く生きることそのものでもあります。」

著者によれば、「共鳴」する力は自己の意識が強固だと弱く、逆であれば強くなるという。「自己の自立性、個の能力を高めることが至上の目標のようになっている」近代以降を生きる私たちのうちに、“nature”の翻訳語以前の「自然」、主客の別があいまいな日本人「自然観」における「自然」が残されているとすれば、それはこんにちの片山洋次郎の説く「気」と「共鳴」のダイナミズムであるのかもしれない。

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