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『女装する女』湯山玲子(新潮社)

女装する女

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 「よそゆき」や「おめかし」というべきものを、久しくしていないように思う。結婚式などの祝い事、パーティー、目上の人との面会、デート、それなりに考えて装っても、右のような表現にはしっくりとあてはまらないのだ。

 NHKアーカイブスや昔の日本映画で、当時の日本人たちを目にすると、みなずいぶんとかっちりとした恰好をしていたなあと思う。

 日常的にスーツを着ることなどない暮らしの私は、年がら年中カジュアル一辺倒。いつのまにか、おばさんもおじいさんもユニクロ、日本人の服装はすっかりカジュアル化した。

 子どものころの入学式やピアノの発表会。服装の決定権は母親にあったから、用意されたものを着るだけだった。

 思い出すのは、フォーマルウエアの袖ぐりや襟元や革靴の窮屈さである。「よそゆき」や「おめかし」は、そうしたいつもとはちがう身体感覚がつきものであった気がする。そしてそれは、精神のたたずまいにも影響する。 

 着物を着ると歩きかたまで女らしくなる、というのも同様。日常的に着物を着ていた日本人女性たちにとって、着物と立ち振る舞いの相関関係は、「伝統」とよばれるものの大抵がそうであるように、ニワトリとタマゴのようなもの。ただしこんにちの女たちは、着物を着ることによって女らしい身のこなしを「再認識」あるいは「発見」する。

 フェミニンなドレスにハイヒール、気合いの入ったメイクに巻き髪、きらびやかなアクセサリー、美しく整えられたつややかな爪……。これまで、女としてのごく自然な表現であると信じられていた女だからこそのファッション。これが、現代を生きる女たちによってなされるときにあらわれる「女装」の意識。

 女性がおしゃれの照準針をフェミニン方向にぐぐーっ、と寄せて装うとき、その心は、ほとんど男が「女装」するがごとくの心境なのだ。

 女性たちはよく、自分をオヤジにたとえて自嘲することがある。

 女の仕事人たちが、女らしい服装をし、ネイルサロンで爪を光らせるのは、だから抑圧された女性性の発露や取り戻しなんかではない。男と別段変わらぬ内面が、あえて女性の記号をふんだんに身にまとい着飾ること。それこそが女が女装するという意味なのだ。

 女が「女装」するとは、一億層カジュアル化への反動でも、男と肩をならべて仕事に生きる女が失いかけた女らしさをとりもどすことでもない。それは、女という記号を対象化した上で、それを自らにあてはめてみせること、女という形式の、あえての採用なのである。

 かつては「かくあるべき」とされた女らしさは、女性たちが「かくありたい」という欲望を肥大化させることによっていったんは却けられ、一方その「かくありたい」の実現の手段として女が女を武器にする、というありかたがあった。

 しかし本書でいう「女装」とは、もはやそれ自体が目的化している。だから、昨今メディアを賑わせているオネエたちの女らしさの過度なプレゼンテーションや、クラブママや叶姉妹といった「女のプロ」たちの技術は、女性たちに受け入れられる(ただし、いまどきの女の子の「かわいい」の体現ともいえるエビちゃんのスタイルは、「切実な男ゲット」を目的とした「女装」らいしが)。

 また、いわゆる「女装」のためのアイテムは、「女の身体に優しく心地よいものではなく、極めて遊戯的で拘束的なデザインが多」く、「ある種肉体的なコントロールも含めた過酷さと努力がいるわけで、そこにはダンディズムに通じるモラル性も感じられる」という。

 我慢も努力も、男からのお仕着せならお断りだが、自らのための「女装」であれば、それは面倒でも窮屈でもなくなるというわけだ。

 女らしさのみならず、かくあるべき姿というものが、スタイルとして、型として、かつては守られていただろう。そしてそれは、人のうわべ、外側のことだけではなかったはずだ。かくあるべき型を壊し、あるいはそこから解放されて自由になった女たちは、こんどは自らすすんで、女らしさのコードを我が身に組み込みはじめたのである。

……現在に生きる女性たちは、過酷な現実を生き抜くために、ありとあらゆる文化コードを自分のなかにビルトインし、有効利用している。それによって、ストレスを発散させたり、生きがいを見つけたり、自分のモラルを作り上げてきている。

 「女装する女」を筆頭に、本書にはそうした「ありとあらゆる文化コード」のさまざまな型と実例が紹介されている。「スピリチュアルな女」「和風の女」「ノスタルジー・ニッポンに遊ぶ女」「ロハス、エコ女」「デイリー・エクササイズな女」「大人の女になりたい女」「表現する女」「子供化する女」「バーター親孝行な女」。どれも自分やまわりの女友だちに、少なからず思い当たる事例ばかり。

 「女装する女」において、著者はこんにちの女性はもはや「頭の中が〝女性〟ではない。」と言い切る。しかし、あえての「女装」は、やはり女性ならではの生きるための知恵なのかもしれない。

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