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『名残りの東京』片岡義男(東京キララ社)

名残りの東京

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 電信柱から縦横にのびる電線、そのむこうにそびえるビルと青空。ささくれた羽目板やペンキの剥げた雨どい。荒物屋の店先に吊された亀の子だわしとほうき。日にやけて痛みきった均一台の中央公論社『世界の文学』。埃を被った商店の日よけや文字の欠けた看板。色褪せた愛国党の貼り紙。にぎり寿司やオムライスの食品サンプル。手書きのメニュー。夕暮れの商店街にともる提灯。


 東京は細部にあふれかえった街だ。たくさんの人たちの生活、たくさんのものや情報やお金の流れによって積み重なったこうした細部を、片岡義男は被写体としてえらんだ。それらは、かつてはくらしのなかで生き生きと機能し、あるものはその役目を終えて放置され、やがて消えてゆく。

 僕が撮影した景色のおよそ半分はすでに消え去って跡かたなく、したがってそれらの景色は写真のなかにしかなく、かろうじて現存する景色も、じつは消えていく東京の名残りなのだ。

 二週間も東京をあけて戻ってくると、いつもの通りにあった店がつぶされているなんてことはザラだと、東京の友人は言う。

 大々的な開発によって、それまであった街並みが跡形もなく失せ、あらたな建造物が出現する。そんな、名残りもへちまもない都市の変貌には、東京に生きる人は慣れっこだろうが、ちいさな泡のつぶがひとつずつ、ぽつりぽつりとはじけるようにして姿を消す細部についてはどうか。

 子供のころから写真に親しんでいた片岡が、九十年代に入ってつぎつぎと写真集を、それも東京をテーマとしたものをだすようになったきっかけは雑誌『太陽』の連載だという。彼の仕事は日本の各地をめぐり、その土地についてのエッセイを書くこと。写真は別の写真家にまかせられたが、自身も必ず愛用の一眼レフをたずさえて取材にでかけたという(これはのちに『緑の瞳とズーム・レンズ』という単行本となる)。そこで彼が撮ったのは「地方都市で蓄積されてゆく日常生活がその周辺にはからずも生み出す、どこか諧謔味のある風景」だというが、その視線は対象が東京となってもかわらない。というより、東京ほど、日常生活とその周辺に蓄積されたあれこれに事欠かない街はないのだ。

 片岡が撮るのは、人びとの日常のまなざしのなかで、とくに意識もされず、しかし記憶のどこかには確実にとどまる景色ばかりだ。ただ素通りされたり、ちいさな目印にされたり、どうしてだか目がいってしまったりするさまざまな細部だ。

 好きだから、面白いから、という理由だけで撮り続けてきたのだが、二十年近い時間が経過すると、撮った景色もこれから撮るであろう景色も、すべては名残りの東京となる。消えたならそこにはいっさいなにもない。したがって消える以前は、すべてがそこにあった。単なるリアリティではなく、具象も抽象もすべてひっくるめた全体が、現実のさなかで人々の生活として機能していた。そのような景色のいたるところに、はからずもあらわれる全体性が、僕の興味をとらえてやまない。名残りの東京のなかで、僕はさらに撮るだろう。

 「これから撮るであろう景色も、すべては名残りの東京」とは、過去と未来のどちらに向かって投げかけられたことばだろうか。

 久しぶりに、ただ歩くためだけに東京の街を歩いた。私のような外の者にとって東京は、あまりに人と情報とマテリアルが多すぎてときに息が詰まる。そんなときに、片岡の捉えたような「名残り」というべきものに目をやれば、かつて自分の見知った東京に思い当たってすこしだけ慰められる。そうした細部の集積のむこうにあらわれる、そんな東京を私は長らく忘れていた。

 それが、片岡の興味をとらえてやまない「はからずもあらわれる全体性」なのだろう。誰にでもそれとわかる東京ではなく、その名残りを彼が追いかけつづけるのはそのためなのだ。


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