『日々の100』松浦弥太郎(青山出版社)
男性というものはとかくこだわり屋、というか、そうならざるをえない人たちなのではないだろうか。順応性と適応能力に長けた女性にくらべ、さまざまなことにいいかげんでいられる幅がせまいから、そのハンディをこだわりというものよって補っているのかもしれない。よくもわるくも、男はなにがしかのこだわりをもっているべきであると、対岸から彼らを眺めて思う。
ところで肝心なのはその発露のしかたである。無頓着というこだわりなきこだわりも、あらゆることに微に入り細にわたって拘泥するも、それがさまになってさえいればいいとは思うが、快不快や好き嫌いだけではおさまらぬ思い入れのなにがしかを対象化でき、しかしひけらかすことなく、だまって貫き通すことのできる人はすてきである。そうでさえあれば、目に見えてわかる趣味のよしあしなどはこのさいどうでもよい、そんなのはたんなる好みの問題なのだから。
本書は、目に見えてわかる「もの」たちの羅列である。100の品々とともに、これをえらびとった著者の思いが語られる。「すべては結局、私が誰とつきあっているかを知りさえすればいい。自分はいったいどんな人間だろうか?」。まえがきで、このブルトンのことばを引きつつ、自分が日々どんなものを愛し、向かい合って生きているかを知ることが、「僕はいったいどんな人間なのだろうか?」という問いへの答えであると著者はいう。
結局は、ものを消費するというところへ落とし込まれがちであった雑誌媒体の世界において、昨今とみに台頭してきたのが生活系・暮らし系の雑誌である。それらのお手本ともいうべき『暮しの手帖』の編集長である著者はこう書く。
……しかし、時代は変わり、新しさという目に見えるなにかで、本当の豊かさを手にすることはできない。それだけでは暮らしが満たされることが無いことに私たちは気がついた。消費という名の新しさで、暮らしを埋め尽くしてみたけれども、そこに残っているのは、寂しさやむなしさや違和感だった。目の前の暮らしが、飾りのようでちょっと嘘っぽいというような。/そんなタイミングで昨今、生活系雑誌が続々と刊行された。それらは、それぞれのテイストで、目に見えるモノや、あるもの、出来事、そういった現実の後に潜む物語や、心持ちや、知恵を、わかりやすく写真と文章で紹介していった。
かたちある「もの」のみならず、その背後にひろがる物語さえも消費してしまう。その能力が人が人である所以ともいえる。しかし、著者がものにまつわる思い出や思い入れが暮らしを豊かにすると信じているのは、彼がこれまでそのように生きてきたからで、だからこそ、本書にならぶ品々と物語によってその人となりが浮かび上がる。100の「もの」たちを貫いて、松浦弥太郎という人がいかなる人間であるかが知れる。
身につけるものに関してはやや保守的とあるが、冒険心にとんだ、勇気のある人であるなあ、というのが何よりの私の印象だ。よく旅のはなしがでてくるせいもある。旅先でお買い物、という消費のみならず、旅行すること自体を消費している私などからすると、ほんとうの「旅」というものをする才覚というのは、選ばれた者の能力であるのだなあ、と思わされることしきりである。
私にとって旅行は非日常だが、著者にとってそれは日常の延長のごとくだ。旅先で出会ったり、人に教えられたり、あるいはもらったりしたおおくのものが、著者の日々の暮らしに馴染んでいるのは、この人が旅のもとでも自らの日々を忘れることなく生きてきたためだろう。それは、旅先でもいつもの自分でいられるということで、臆病者ではとてもかなわぬことである。