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『物語としてのアパート』近藤祐(彩流社)

物語としてのアパート

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 「乃木坂倶楽部」は、萩原朔太郎が妻・稲子との離婚後、ふたりの娘を連れ郷里の前橋に戻るも、ふたたび単身上京した昭和四年の末、ほんのひと月半をすごしたアパートである。彼はのちにそのときのことを詩に書いたが、著者は詩のなかにうたわれた「乃木坂倶楽部」と、現実の「乃木坂倶楽部」との食い違いに注目した。


 乃木坂から麻布一聯隊(のちの防衛庁、現在のミッドタウン)へ抜ける道のなかほど、石段の坂道の途中に木造二階建ての「乃木坂倶楽部」はあった。しかし朔太郎は、「アパートの五階に住み」と書き、さらにその詩の自註には、アパートは「坂を登る崖上にあり」としているのだ。

 「壁に寝台(ベッド)を寄せてさびしく眠れり」「白堊の荒漠たる洋室の中」とあるように、「乃木坂倶楽部」が洋風の造りであったのはたしかだが、木造で五階建てというのはありえない。現実には二階建て、坂の途中にあったというアパートを、崖上の五階とした、その虚構はどこからやってきたものなのか。このちいさな謎をはじめとして、著者は日本近代におけるアパートの受容のありかたを、小説や詩にえがかれた、あるいは文学者の暮らしたアパートを手かがりに、建築の歴史に沿って解き明かす。

 たとえば夏目漱石の小説にアパートは登場しない。漱石の小説の舞台となるのは下宿か、あるいは(借家か持ち家かは別にして)戸建住宅である。詩人を例にあげれば、朔太郎よりも九才若い金子光晴の同時代の詩にも、アパートは登場しない。滞欧時を含め大正から昭和初期に書かれた詩に、アパートメントやアパルトマンというボキャブラリーは見当たらないのである。おそらく朔太郎は、日本の近代文学史上、かなり早い時期にアパート建築を作品に登場させた作家ではないか。

 おなじく昭和初期、朔太郎に先駆けて、竜胆寺雄の『アパアトの女たちと僕と』というモダニズム小説にアパートがえがかれているように、当時「アパート」は「日本の近代社会に認知されはじめてまもない時期ではなかったか」と著者はいう。そして「当然のようにそれは、数十年たった今、私たちがありふれた日常風景として見るアパートと同じでない」のだと。

 今日の私にとって「アパート」といえば、「○○荘」と名のつく古めかしいものから、比較的こぎれいな「××コーポ」といったものまで、建てられた時期にいくらかの幅はあるだろうが、たいていが木造か軽量鉄骨の二階建て、鉄製の階段に外廊下、各戸の玄関の脇に洗濯機がおいてある、といった建物だ。近所の友人が住んでいるのはまさにそんなアパートである。

 ところでその友人は、旧町名を冠し「○○町ハウス」と名づけられたそのアパートをこよなく愛していて、それは傍目にはすこし大袈裟と思われるほどの愛着ぶりなのだった。彼曰く、自分は味気ないマンション暮らしではなく、あえてこのアパート暮らしを楽しんでいるのだと。夏場、簾を下ろして開け放った玄関に蚊取り線香を焚き、友人数人とビールを飲みながら花火ができるくらいにはスペースのあるちいさな庭も自慢のひとつで、たしかに、オフィスビルとマンション、その合間に一戸建ての住宅と商店がぽつりぽつりとあるという界隈においては、そのアパートは「ありふれた日常風景」とはいえず、だからこそ彼はそのアパートに思い入れることができるのだ。

 本書では、アパートをめぐっていくつかのキーワードが登場するが、右の友人のアパートへの思い入れはそのなかのひとつ〈家郷性〉に由来するものだろう。アパートにおける〈家郷性〉とは、高度成長期を経て、より快適で便利であるがゆえに、私的空間性と排他性の高いマンション住まいが主流となるなかで、人々がアパートに見いだす「懐かしさ」をいう。

 そのほか、建築史に名を残す「御茶ノ水文化アパート」や「同潤会アパート」などの、都市計画の一環として、またこの時代ならではの文化的生活への志向によって公的に計画されたアパートの〈理念性〉。離婚後の朔太郎が暮らした「乃木坂倶楽部」のように、それまでの下宿や間借にくらべ、プライバシーを保つことのできる〈単身性〉と〈非・家族性〉。アパートの急増と大衆化とともに、まさにピンからキリまで、種々雑多なアパートのなかで〈非・理念性〉の系譜におかれるアパート。戦後、「ありふれた日常風景」と化したアパートの〈仮寓性〉と、駆け出しのマンガ家たちが青春と自由を謳歌した、かの「トキワ荘」にみられるアパートの〈アジール性〉。

 時代の先端をゆく新しい住まい、それまで味わうことのなかったプライベートな空間、いつまでもとどまっているわけにはいかない場所、転々とさすらいつづける借りの住まい、共同体のしがらみを離れて自由に夢をみられる部屋。時代によって、「アパート」の受容のありかたは移りかわる。

 かつて、アパートはたしかに「ありふれた日常風景」だったが、先述の友人の例にあるように、私の生活圏ではアパートは姿を消しつつある。

 私が家族と離れて最初に住んだのは「○○荘」と名のつくアパートだったが、その後はマンションを転々とするという住まいかたがこれまでつづいている。そんななか、こうしてさまざまなアパートとそのありかたを知ると、「マンション」は「アパート」にくらべて、これといった像を結びにくいものだと気づく。立地や面積や築年数や設備のちがい――つまり、価格や家賃のちがい――くらいしか頭にのぼらず、マンションの林立する風景を「ありふれた日常風景」とも呼びにくく、物語というものが想起されにくい。

 本書には、郊外のファミリー向けマンションが舞台となる小説の、息詰まるような〈家族性〉についても語られるが、その救いようのなさは、明治末から戦前・戦後、多くの都市生活者がすごしてきたアパートの物語に読み込まれた夢や、貧しさのなかでも希望を捨てないたくましさや生命力の欠落ゆえのことだろう。

 これが、「ワンルームマンション」ならば、ここに書かれたアパートの、たとえば〈単身性〉〈仮寓性〉〈アジール性〉といった系譜に連ねることができる。しかし本書は、昨今若者のあいだにひろまりつつありルームシェアについてがレポートされたあと、このあらたな居住形態に「アパートという物語のあらたなページを読んでみたい気がする」と結ばれる。「アパート」の物語につねにつきまとっていた〈単身性〉〈非・家族性〉をこえなければ、あらたな物語はもはや紡ぎ出されないということなのかもしれない。

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