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『おとなの味』平松洋子(新潮文庫)

おとなの味

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 大人の味といえば、苦みや辛みやえぐみ。大人になってはじめて知るおいしさは、誰にでも思い当たるはず。ここにも、子どものころはむしろ遠ざけていた山菜を切実に欲する人がいる。


 春先に野山の苦み、えぐみを味わう。すると、にわかにからだの奧で蠢動が起こる。眠りこけていたものが、ぶるりと身を震わせて起き上がる。

 かんがえてみれば不思議なことだ。舌先から伝わった味が五臓六腑に響き渡り、おおきな伸びをひとつ、からだを覚醒させる。そして、冬のあいだに溜まっていた澱がすうーっと下り始める。

 そのとき食べたいものは、「私」の好みや理屈をこえて、身体がもとめているのだと気づくことがある。ときどきたまらなく食べたくなるものがあり、お腹におさめてはじめて、ああそうだったのか、と自分の身体の調子に合点がいくのだが、次のときには忘れていて、ああそうだった、とおなじことをくりかえす。理屈でもって、あれもこれも必要だからと先回りして口に入れるよりは、自然なありかたなのかとも思う。

 読む、という場合にも、おなじようなことをしているな、と思うことがある。何か目新しいことを知りたいのでもなく、むずかしい理屈をたどるのも、話の筋を追うのも億劫で、するとエッセイ、ということになるが、選びかたを間違えると後悔しそうで怖い……などと、ないものねだりしているつもりは決してないのだが。ただ、読みたいのだけはたしかで、ああこれだと読みはじめ、とまらなくなると、本を手にするまでのあのちょっとした屈託が何だったのかに思い至るのである。

 読んだり書いたり、のくりかえしのなかで、読みたいという気持ちとはいったい何なのだろうと、どこかでいつも考えている。その、何なんだろうの気持ちをあらためて強くさせられる本というのがときどきあって、つまり、本書はそのような本であった。

 食べもののことが書かれてある。エッセイとよばれるたぐいの文章である。著者には「エッセイスト」のほかに「フードジャーナリスト」という肩書きもあるから、その書くものにはもちろん、ジャーナリスティックな視点もある。雑誌・新聞に初出のあるものは、特定のお店や食べものという明白な主題があるが、本書のために書き下ろされたものは、味覚という実態のないものを、さまざまなスタイルで、さまざまな方向から照らし出す。なかには短編小説のような一文もある。

 じっくり天日に干したずいきは、これぞひなびた味わいといいたい。すっかり水分を失ってふかい皺の刻まれた濃茶の表面には、あきらめとしぶとさ、その両方が見てとれる。来る日も来る日も太陽と風になだめすかされて、なすがまま、あるがまま、あとはどうにでもしてくれい。もはや愛想のかけらもないが、拗ねてもいない。それが、ひなびた味の正体だ。

 ひざをすりむいて、つばを塗りつけたとき指さきに感じた血の味。海水浴の砂浜でくちびるを舐めたときの磯の味。落っことした飴がもったいなくて、ごみを払ってもう一度舌のうえにのせたときのほこりの味。運動会のときクラス対抗の徒競走で、アンカーだというのにつんのめって転び、口のなかにまみれた砂の味。古くなった食パンを知らずに囓ったときのかびの味。たとえばそのような味でさえ、おしまいになってしまった歳月のなかにあってはたまらなくきれいで、すきとおっている。

 こういう文章に触れると、腹の底から読むうれしさがわきあがってくる。味を知るとは、なにも舌の表面の味蕾への刺激だけを指すのでない。自分にはまだまだ味わったことのない「おとなの味」というものがあるだろうと思う。

 このうれしさはまた、ことばと触れあうよろこびによるものかもしれない。それは著者の、これまでのことばとの触れあい、著者が読んできたことによって培われてきたものを譲り受けるよろこびだ。

 旅の荷物に入れるのは、獅子文六小島政二郎子母沢寛。高校生のときは金子信雄荻昌弘伊丹十三檀一雄が愛読書。惹かれるのは男性の書き手ばかりだったと本書にはあり、彼等から受け継がれたことばが、著者のなかに生きているのだろうが、私は向田邦子のことを思い出した。

 子どものころのこと。寿司折の「おみや」をぶら下げて父親が帰った晩、ねぼけまなこで妹とふたり、座敷に座る。

 どれから食べよう。箸を握っていると、コップの冷たい水を飲みながら父が言う。

 「ようこさんはいか。けいこさんはえび」

 娘に「さん」をつけて呼ぶ、ほろ酔いで上機嫌のお父さん。この夜遅くのお寿司で、彼女はわさびの味を知る。あるいは夏休みの午後、昼寝から覚めてまず飲む麦茶。姉の役目である夕飯前のかつおぶし削り。平松洋子という人も、「昭和の長女」という呼び名がよく似合う。そのことばを受け継いで、自分のなかに生かしていきたいなあ、と思わさせる書き手である。

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