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『絵と言葉の一研究 「わかりやすい」デザインを考える』寄藤文平(美術出版社)

絵と言葉の一研究 「わかりやすい」デザインを考える

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 著者は広告のアートディレクションやブックデザインを手がけるデザイナー、イラストレーター。本書は、それまでの仕事をまとめたギンザ・グラフィック・ギャラリーでの展覧会「寄藤文平夏の一研究」と連動し、著者が、その生業において共通項ととらえる「絵と言葉」、そして「わかりやすい」デザインとはなにかについての考察をまとめたものである。デビュー作誕生のプロセスにはじまり、赤瀬川源平千利休 無言の前衛』を対象としたさまざまな装幀のアイデアの羅列、書評等バラエティに富んだ構成。

 第2章「お金とタッチ」にこんなエピソードがでてくる。著者が仕事をはじめた当初のこと。イラストレーションの依頼のことごとくが「ヨリフジさんのタッチで描いてほしい」というものだった。1日に何度となく「ヨリフジさんのタッチ」という言葉を聞かされることもあって、若きクリエイターは思った。

 僕にはわからなかった。ラーメンを「ヨリフジさんのタッチ」で描いたからってなんなのか。寄藤文平は「ヨリフジさんのタッチ」専用マシーンなのか。


 僕は毎回、決められた絵を「ヨリフジさんのタッチ」で描くのではなく、絵の作り方から考えたいこと、タッチを売り物にするつもりがないことなどを力説した。


 ところが、そういう話をすると、だいたい困った顔をされるのである。「このガキ、メンドクセーな……」という空気になる。僕にはその理由もわからなかった。

 これは、「お仕事とクリエイティビティとの間での板挟み」といった「よくある話」にとどまらないと思う。

 第三者の目からすれば、著者の「わからない」は、発注者と受注者との価値観や意識のくいちがいの結果にすぎない。そもそも、「ヨリフジさんのタッチ」とは、広告の企画説明用のラフを描く上で編み出された、描き手の個性を消したタッチなのであった。その「わかりやすさ」がかえってウケてしまったのである。

 ただ、それをもとめられることに対する著者の「わからない」は、彼が仕事をしていくこと、なにかを作り出していくことそのものにかかわるとても根源的なものであるような気がするのだ。

 この例にとどまらず、著者は総じて「わかりやすさ」をもとめられることがおおかったようだ。そうした依頼に答えるかたちで仕事をこなしてきたであろうなかで、著者は「わかりやすく伝える」ことに対する疑いを深めていくことになる。

 「わかる」ということのおもしろさや楽しさが、この人の手がける仕事のかんどころだと、これまで私は感じてきたのだったが、はたしてそうなのか。本書を通読すると、自らの「わからない」を容易に手放さない姿勢の先に、この人の数々の仕事は連なっているようにみえてくる。第6章「わかるとわかりやすさ」にはこうある。

 ふつうに考えて、ある物事が「わかる」とき、同時に「わからない」ことも増える。僕はデザインについて母よりもわかっているけれど、母よりも「わからない」と感じている。「わかる」というのは、「わからない」ことが生まれて、それをまた「わかる」という「わかる⇄わからない」の反復運動だと考えた方が自然だ。


 そのように考えると、「わかりやすくする」というのは「その運動をより活発にする」ことだといえる。「わかりやすく伝える」ことは、「その運動がより活発になるような伝え方をする」ということだ。


 だから、いきなり「わかった」状態にしようとしなくてもいい。「わかった」というのは運動をいったん打ち切ることだから、むしろ「わかりやすさ」の逆だ。「わからない」ほうがいいこともある。

 すとんと腑に落ちるときの快感、というものが確かにある。広告等の仕事においては、その着地点はおおむね、安心安全なところに設定されているから、こころおきなく腑に落ちてしかるべきなのだが、「『わかりやすい』デザインを考える」というサブタイトルをもつ本書から私が受け取ったのは、「わかる」ことの快感などではなかった。

 上の引用部分に著者は、「わかる/わからない」の表裏のないメビウスの輪の絵を示してみせているけれど、私が本書を読みながら思い浮かべていたのは、「わかった」と思って着地してみたら、その足元に深くて大きな「わからない」の穴があいていて、その底をのぞきこんでいる自分の姿だった。

 たぶん、「わかりやすく伝える」ことの中には、「その素晴らしさを伝えたい」という気持ちが含まれている気がする。


 なにかを「わかる」というのも、別の言葉で言えば、なにかを「好きになる」っていう話なのだろう。

 著者はこんなふうにこの章を結んでいるのだが、それまでの話のすすめかたからすると、いささか歯切れの悪いまとめではないか。広告という仕事においてもとめられる「わかりやすさ」が「その素晴らしさを伝えたい」ゆえなのは明白だが、著者が考えようとしているのは、もはや実際的な仕事の枠を超えたなにかだと思うからだ。

 「デザイナーとして進む先がわからない」と、本の冒頭で著者は書いている。そうしたなかでこの本はうまれた。そういうふうに、自分とその仕事を距離をもって眺められることはすばらしいと私は思う。それはまた同時にしんどいことでもあるだろう。

 本書は、クリエイターがその創作の一端を披露する、といった類ものからは、どこかではみだしている。デザインの素人である私は、そのはみでた部分をおもしろく読んだ。そして、「わからない」の穴をのぞきこむのはちょっと怖くて、そこへ飛び込むのには勇気が要るように、手放しでおもしろがることのできない、ふしぎな後味ものこったのだった。

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