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『家と庭と犬とねこ』石井桃子(河出書房新社)

家と庭と犬とねこ

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 私は、元来、巾のせまい人間で、清濁あわせ呑むというわけにはいかないので、じぶんでもこまったものだと思っているけれど、こんな人間にとって、じぶんと波長のあう友人、波長のあう本を見いだしたときの喜びは、格別である。


 虫がすくとか、気が合うとかいうよりも、もっとほかに、人間には、まだわかっていない科学的な法則――たとえば、体質とか、気質とかで、ぴったり理解しあえる人間とか、物の考えかた、感じかたがあるような気がする。私が、それを「波長が合う」というものだから、友だちにおかしがられたり、おもしろがられたりするのだが、このじぶんの波長を、ほかの人のなかに見いだすことが人生の幸福の一つなんではないかしらと、私はよく考える。

 石井桃子が、宮崎県の鶯沢という村で開墾生活にはいったのは、Kさんという女性との出会いが大きなきっかけとなった。石井にとってそれは「人生の幸福の一つ」だっただろうか。

 「山」での暮らしをはじめたのは、戦争が終わろうとするころのことである。このとき石井は三十八歳、「戦争中、いろいろかなしいことが私の身におこり、私は世をはかなんでいた」。

 すでに文藝春秋社、新潮社で編集者として働き、あの「プーさん」の翻訳も手がけていた石井だったが、「自分の生き方で迷っていた」とき、川崎の真空管工場で、秋田から教え子を連れて働きにきていたKさんに出会う。

 彼女と意気投合した石井は、工場を訪れては、Kさんとともに真空管をつくり、寮にいる生地たちに国語を教えたりしてすごす。やがて、「百姓をしたい」という夢を打ち明けると、Kさんもそれに同調、石井は東京を離れ、Kさんの郷里である宮城へ向かった。

 Kさんの友人から借りた山地に、「最初の一鍬」をおろしたのがまさに1945年8月15日のことだった。「べつに、敗戦に奮起していうわけではなく、その日は、Kさんの母上の命日で、私たちは、私たちの新しい仕事にこの日にはじめたいと、前から考えていたのである」。

 こうして、ついに、いよいよ、という風に開始された生活。借り物の農具をたずさえ、間借りしている農家から、「山」へ出かけてゆく。都会からやってきたこの女たちを、現地の人々はいろいろにうわさして「御亭様が戦地から帰ってくるのを待っている連中だ。」としたというが、女たちは「いつまでたっても女ばかり」なのだった。

 そこで、終戦とともにあらわれた女たちは「マッカーサー部隊」とあだ名される。一方、東京の知り合いからは、この山での暮らしを「ばかばかしい時代サクゴ」だの、「新しい村の亜流」だのと言われた。

 その冬には、自分たちの畑のそばにある小屋に手を加えて移り住む。縁者の若い人たちが入れかわり立ちかわりやってきては仕事を手伝ってくれたが、終戦後の混乱もおさまってくると、みな都会へと戻っていってしまった。そうして三年ほどが経ち、女たちは、農業だけで食べてゆくことがいかに難しいかをようやく理解し、現金収入を得るために牛を飼うことにした。それには、『ノンちゃん雲に乗る』の印税をかたにして借りたお金があてられた。やがて、酪農組合の必要に迫られ、その資金作りやそれまでの借金の整理のために、石井は東京での本の仕事へと戻る。

 本書に収められた文章は、1948年から2002年までと、101年を生きた石井だけあって時代の幅が広いが、おおくは1950年代から60年代にかけて書かれたものである。暮らしの周辺や子ども時代の思い出、それから、「山」での生活について。このエッセイ集によって、それまではただ、大きな名として知るのみだった石井桃子の人としてのすがたに触れた思いがする。

 たとえば、東京の友人たちから、「山」でいったいどんな格好で農作業をしているのかと問われた話からはじまる「かなしいのら着」。「あなたのことだから、少しはハイカラなかっこうしてるんだといって笑ったの」と言われ、石井はこのように続ける。

 あなたのことだから、というのは、私がハイカラだということではなかった。ただ私が単純で子供っぽく、自分の身についた物や事でないと、着たり、料理したり、話したりできない種類の人間だったから、服装も、自分でしまつするようになってからは、ほとんど洋服というものを着ていたというだけの話であった。けれどそれを「洋服」とおもって着ていなかった。そして一つには、小さいときからとても語いが少なかったためと、また、手製のものをわざわざ洋服と言う気にもなれなかったために、自分の着るものは、ふつう「きもの」と言っていた。

 「洋服」と「のら着」。ハイカラなものとそうでないもの。質問者は悪気があってそんな質問をしているわけではないだろうが、「雑巾みたいなのら着を着、雑巾みたいなふとんでねている」山の人たちの暮らしをその目で見て、都市の農村の生活の落差に憤っていた石井は、そんな都会の人の無意識の対比を見逃すことができない。そこで、「自分の着るものはふつう「きもの」と言っていた」と書いてみせる。

 あるいは、「ひとり旅」なる一文。友だちから、ひとりで旅行へ行くことに驚かれたこと、そこに、ひとりでいることのさびしさと恐れをよみとった石井は、「ひとりである」ことの自由とたのしさをこのように書く。

 [……]私はひとり者だから、ひとりでいることには慣れているし、それに、さびしさというものを、私はきらいではない。[……]ひとりでいてさびしくて、どうにかなりそうだなどと感じたことは、一度もない。それどころかさびしいときには、感受性が強くなり、まわりのものに目が開けるような気さえするのだ。


 [……]


 戦争ちゅう、私は、東京郊外の小さな家に住んでいた。母が死に、父が死に、いちばん親しい友だちが死に、私はその小さい家で、庭の木を切り、じゃがいもや大根をつくっていた。戦局は暗く、私のしたい仕事の場は、だんだんせばまり、私はつましく暮らしていた。家のなかは否応なく片づき、窓のガラスは、いつもきれいだった。


  ある日、そのころの食事ともいえない食事のあと片づけをしながら、流しの上の窓から外をながめると、木々はみどりで、みどりをすかして見る空がほんとうに美しかった。 そのとき、私は、自分のからだが、木々と私のあいだの空気とおなじに透明になっていくような気もちになり、その透明なからだのなかの心臓から泉のようなのものが、こんこんと流れだしているのに気づいた私は、どのくらいかのあいだ、死んだひとや生きているひとたちをだいじにしなければならないという思いに打たれて立っていた。

 決して声を荒げることはしないが、ゆるぎない思想がある。「石」と「桃」。かたいものとやわらかいものが同居している「石井桃子」って、なんてすてきな名前だろうと、子どものころから、絵本や児童文学というものにも親しんできたとは言えない私は、その人についてをよく知らぬままそう思いつづけてきたのだった。この本を読んだいま、きっと、その「石」は滑らかで硬くて手のひらにのせると暖かで、その「桃」は木になったままで産毛も手を刺すほどのみずみずしい。そんな印象をあらたにしたのだった。


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