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『Architecture : A Very Short Introduction (Very Short Introductions Series) 』Ballantyne, Andrew(Oxford Univ Press)

Architecture : A Very Short Introduction

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建築学超入門」

ゴダールの映画「軽蔑」の後半シークエンス全面に使用されている非常にインパクトのある建物が、カプリ島マラパルテ荘である。イタリアの有名建築雑誌「Domus」の過去50年間イタリア建築ベスト選でも第一位に選ばれている(Wave 9号 特集「ノヴェチェント」1986年)。そのような傑作であるが、残念なことに非公開であって、建築家リベラの遺志もあって、現在は中国政府の所有になっているらしい(リベラはマオイズムに傾倒していた)。マリーナ・グランデで船をおりたあと、青の洞窟に行くながれからは離れて、ケーブルカーでカプリの町に登り、そこから絶景のファラリオーネをとおり、島の南西方向をまわるハイキングコースの途中で、木々のあいだからこの垂涎の建築を遠望できただけでも幸せとしなければならない。

我々の日常は―特に都市部に生活するものにとって―建築物と無縁でいることはできない。

建物の意味はそれら自身のみにあるのではない。例えば、農家がそこに働く農民のためだけにある場合は、誰もそれを美術的表現だとは思わないだろうが、ロマン派の詩人はこうした簡素なコテージを地主制時代の美徳と見た。これが意味するのは、建物をジェスチャーとしてみる態度であり、18世紀末になり、田園に別荘を持つことがファッションとなると、必然、美的価値が認識されるようになり、デザインとして形式化していく。古代より、農業を美徳あるロマンティックなものとして長い伝統があって、ヴァージルがエクログスを書いた1世紀にはすでにその伝統は確立されていた。のちに農業が人々の日常生活から乖離する時代になると、農業をセンチメンタルに解釈する人々があらわれ、そうしたクラスの人々にとって、遠くかた眺める農村風景は無垢でうらやむような対象と考えられるようになる。この感傷性の最も極端な例が、ヴェルサイユにあるマリー・アントワネットのラモーである。

(本書 P.25 to 27)

この観光名所には、フランスの友人を伴って、三年ほどまえに行ったことがある。オーストリア出身の王妃は自らの心象風景を満足させるために、農家や農民を生きたジオラマとして、風景として配置していた。友人が「世界史上のもっともイカレタ狂気の見本」と唾棄するように言ったことを思い出す。

外国で暮らしはじめたころ、建物の外側から受ける印象と、その内部の構造や内装が、これほど違うことにおどろかされたものだ。イギリスのNational Trustは多くの歴史的建造物を保存・公開しているが、それらを訪れるときいつも、内部の暗さや迷路のような構造に、子どものようにわくわくさせられた。谷崎潤一郎の随筆「陰翳礼讃」には

西洋人は(中略)絶えず明るさを求めて行き、僅かな蔭をも払い除けようと苦心する

という文章がある。平成のいまでは、事情は逆転してしまっている。ヨーロッパでは室内灯として蛍光灯をあまり使わないから、むしろ我々の感覚からはかなり暗い明度の中で暮らしている。アメリカ化した日本の生活がそれだけ変化したということだろう。なぜかJonathan Swiftから古い廃屋を買う夢をよく見るのだが、昔は関西に古い西洋建築が沢山あって、こういう本をぺらぺらめくっていても楽しいものだ。イギリスにはこうした趣味を満足させるジョンソーン博物館という特異な場所がある。日本にも日本民家園という、地味でさほど人気もないけれどすばらしい場所があって、谷崎言うところの「翳」を味わうことができるのでお勧めだ。

当シリーズは学生用にコンパクトで廉価の良書であり、お勧めする。

(林 茂)

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