書評空間::紀伊國屋書店 KINOKUNIYA::BOOKLOG

プロの読み手による書評ブログ

『異教的ルネサンス』アビ・ヴァールブルク(ちくま学芸文庫)

異教的ルネサンス

→紀伊國屋書店で購入

だれしも、自らの旅を楽しく思い出す。アルバムを眺めたり、パソコンで写真を見たり。切符や入場券のスクラップ帳をつくるアナクロなひと(私だ)もいる。

はじめてローマに行ったとき、蜂の噴水やトリトーネのあるバルベリーニ広場近くのホテルに泊まり、となりの美術館(国立絵画館)で、ラファエルロのこの肖像画を見た。個人的好みとしては、いま日本に来ているティツィアーノの「ウルビーノのヴィーナス」に匹敵する美人画であり、この傑作が巡る物語を、本書をふくむ数冊の読書の旅(“The Families Who Made Rome”, “Giordano Bruno and the Hermetic Tradition”, 「シエナ-夢見るゴシック都市」、パノフスキー他「土星とメランコリー」など)によって再構成してみたいと思う。

物語は、トスカーナ中部の町、シエナにはじまる。ここは中世の香りが未だ強く残るところで、イタリアの都市には別段めずらしくないが、しかし聖母信仰の篤さにおいては際立っていた。一方でこの町は、中世以前からの異教的伝統も持ち続けていて、その優美極まりないドゥオモの床面モザイクに、ヘルメス・トリスメヂストスや異教の神々が描かれている奇異は、Francis Yates著Giordano Bruno and the Hermetic Traditionタイトル頁の口絵にも示されるとおりだ。中世末期から盛期ルネサンスへの変化のなかにあるシモ-ネ・マルティーニの受胎告知画(ウフィッイ美術館蔵)の美しさを思い浮かべれば、まさにこの町シエナの独占とするところを知るだろう。

1465年、ラファエルロのパトロンアゴスティーノ・キージはこの町シエナに生まれる。銀行業で財をなし、教皇庁ローマに進出し、やがてかれは、占星術美術最大のパトロンになるだろう。繁栄のはてに、健康と長寿を祈るアゴスティーノ・‘マグニフィコ’・キージは、自らの誕生日ホロスコープ寓意画を画家に注文しようと考える。ミケランジェロは本命だが、教皇の独占物には手が出せないし、そもそもこの超人指向の天才が占星術絵画を描くことに同意するとは思えない。ラファエルロに白羽の矢が立つ。画家は海豚に牽かれた一輪車で凱旋するガラテアのフレスコは描くことになるだろう。しかし天真爛漫なこの画家をローマのはずれトラステベレのキージ館につなぎとめる苦労は並大抵ではない。ヴァザーリによると、「彼の館の第一開廊を装飾させたとき、ラファエルロはいっこうに仕事に打ち込むことができなかった。それは彼が女の一人に夢中になっていたからである。それでアゴスティーノは絶望したのであるが、どうにかこうにか皆で手立てを講じ、やっとのことで、その女が、ラファエルロが仕事をしているその仕事場へずっと彼と同棲しにくるように取りはからった。仕事が完成したのはそのおかげである」(ルネサンス画人伝 p.199)。肖像画ラ・フォルナリーナは、こうして描かれた。

物語はまだ続く。天井画には、結局ペルッツィが指名された。十二宮占星術により、木星と水星の導く健康と明るさが求められ、土星とメランコリーは、その美点にもかかわらず、ここでは忌諱されることになる。しかし、数年経たぬ間に、この誕生日ホロスコープの願いも虚しく、アゴスティーノはこの世を去る。キージ家にはフラビオI世という教養ある跡取りがいたが、こうした人物に商才を求めようもなく、間もなく没落の坂を転がりはじめる。競争は激しいのだ。キージ荘はファルネーゼ家に、肖像画を含む他のコレクションは、ベルリーニのパトロンであるバルベリーニ家に売却される。サン・ピエトロやポーポロ広場における、キージ家とバルベリーニ家との縁を考えれば自然ななりゆきというものだろう。

こうして、この絵は、このミツバチの館で、さほど多くない観光客を迎えるマドンナとなった。本書第二章「ルター時代の言葉と図像に見る異教的=古代的予言」が触れている、アグスティーノ・キージの誕生日ホロスコープ周辺の顛末は以上のようなものだ。

本書は以下の言葉でしめくくられている。

ヴァールブルク文庫が願うのは、以下のことである。つまりキュジコスアレクサンドリア-オクセネ-バグダード-トレド-ローマ-フェッラーラ-パドヴァ-アウクスブルグ-エアフルト-ヴィッテンベルグ-ゴスラル-リュ-ネブルグ-ハンブルグ、というただ差し当たり杭を打ったに過ぎない遍歴路においてさらに数多くの里程標識が掘り起こされ、そうしてヨーロッパ文化が対決の所産としてさらにいっそう異論の余地なき姿を現すこと、そしてこうした対決の過程においてわれわれは、占星術的な方向付けの試みが問題になる限りにおいて、味方もまた敵も求めてはならず、むしろ互いに遠くはなれ、緊張を孕んだ両極の間で揺れ動くが、しかしそれ自体では統一的な魂の振動、すなわち祭祀的な実践から観照へ、そしてまたその逆へ行きつ戻りつつする魂の振動の徴候を求めるべきということなのである。

(林 茂)

→紀伊國屋書店で購入