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『ケネー 経済表』ケネー(岩波書店)

ケネー 経済表

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「経済学の真の天才の作品」

 フランソワ・ケネー(1694-1774)の『経済表』が岩波文庫に収録された(『ケネー 経済表』平田清明・井上泰夫訳、岩波文庫、2013年)。喜ぶべきことである。なんとなればケネーは経済学の創設期を飾る真の天才であるから。
 なるほど、アダム・スミスもイギリス古典派経済学の父という意味では経済学の誕生を語るには欠かせない偉人だが、そのスミスでさえ、フランスで「フィジオクラシー」(重農主義)と呼ばれる学派の指導者であったケネーを尊敬し、『国富論』を彼に献ずるつもりであったことが知られている(残念ながら、『国富論』が出版された1776年にはケネーは他界していた)。しかも、ケネーは、古典派やマルクスによって継承される「社会的富の再生産」という視点を誰よりも早く明確に把握していたように思われる。それゆえ、私は、経済学史の講義ではケネーを最初に取り上げることにしている(拙著『経済学の歴史』講談社学術文庫、2005年を参照のこと)。

 ケネーの生涯や学説の詳細については、本書の解説や専門書にゆずるが、以下では、ケネーの『経済表』のどこがそれほど天才的なのかについて私の見解を述べてみたい。

 『経済表』は、ケネーが理想とする「農業王国」の経済システムをひとつの表の形で示したものだが、これをみて何が言いたいかをすぐに理解できる人は当時ほとんどいなかった(同書36ページに載っている「原表第三版」を参照)。のちに「スフィンクスの謎」だと言った人もいる(エンゲルスの言葉)。

 表をみると、真ん中に「地主階級」、左側に「生産階級」、右側に「不生産階級」が配置されている。ケネーによれば、農業のみが「生産的」であり、それ以外の産業は「不生産的」となるが、もともと「自然の支配」を意味する「フィジオクラシー」が「重農主義」と訳されたのは、いくらか誤解を招く恐れがあるものの、理由なきことではなかった。表では、地主階級はその貨幣を生産階級と不生産階級に半分ずつ支出し、その後、生産階級と不生産階級の生産物(農産物や工業品)と貨幣がどのように流れていくかがジグザグの線で示されている。ケネーはもともと外科医であったが、一説には、このような思想にはウィリアム・ハーヴェイ(1578-1657)の「血液循環説」が影響を及ぼしているという。

 この表には、同じ再生産額(1500リーブル)が年々歳々繰り返されるような状態が描かれているが、これはのちにマルクスが「単純再生産」と呼んだ世界である。現代的な用語では、シュンペーターが使った「静態」(stationary state)と呼んだ状態に他ならない。このようなモデルがなぜ重要かといえば、『経済表』をもって初めて経済システムの存続可能性が、個々の経済主体の意思や思惑とは独立に、客観的な法則として提示されたからである。このような視点が古典派やマルクスを経て現代のスラッファにまで受け継がれていく。この意義はいくら強調しても強調し過ぎることはない偉業である(注1)。

 ケネーは、ひとつの表のあとに続けて「経済表の説明」その他を書いているが、それはあくまで「説明」であり、彼の経済思想のエッセンスはひとつの表の中にすべて凝縮されているといっても過言ではない。経済学史上たったひとつの表だけで不朽の名声を得たのはケネーのみかもしれない。もちろん、「説明」を読み飛ばしてはケネーの経済思想を十分に理解することはできないが、一応の知識を頭に入れて改めて『経済表』を眺めると、彼がいかに巧妙にみずからの思想を表の中に埋め込んだかがわかって驚嘆するだろう。

 ところで、ケネーの重農主義は、農業のみが「純生産物」を生み出すという意味で「生産的」であると捉えた。なるほど、これはスミスも批判したように狭い捉え方であったかもしれないが、ケネー以前にフランスの経済政策に大きな影響を与えていた「コルベール主義」(商工業や外国貿易を偏重したフランスの重商主義)のために農業が疎かにされ、農村が疲弊していたという歴史的事情を勘案しなければならないだろう。コルベール主義のもとでは、工業製品の価格を低めに抑えるために低賃金政策がとられたが、そのためには農業の生産物である穀物の価格を人為的に低い水準に釘づけにする必要があった。ケネーの用語では、穀物の「良価」の実現が政策的に阻まれていたのである。それゆえ、ケネーは、穀物の流通を外国貿易も含めて自由にし、重商主義の規制を撤廃しなければならないと説く。いわゆる「経済的自由主義」の思想だが、これは、しばしば誤解されるように、「自由放任主義」のすすめではない。国家には国家にしかできない仕事があるからである(注2)。

 農業のみが「純生産物」を生み出すという意味で「生産的」ということは、「純生産物」のみが課税の対象になるということでもあるが、「純生産物」は結局「地主階級」の収入となるので、「地主階級」のみが納税者になる。ケネーの「土地単一税」と呼ばれる思想である。ケネーは次のように述べている。

「租税が破壊的なものではないこと。すなわち、国民の収入の総額に不釣り合いなものでないこと。租税の増加は国民の収入の増加に準拠すること。租税は土地が生む純生産物に対して直接課されること。そして生産物(農業以外の生産物―引用者補足)のうえに課されないこと。もし生産物に課されるならば、租税は徴税費を増加させ、商業を害するであろう。租税はまた、土地を耕作するフェルミエの前払から徴収されないこと。なぜなら王国において、農業の前払は、国民の租税と収入の生産にとって大切に保存されるべき恒常的なものとしてみなされなければならないからである。さもなければ、租税は化して詐取となり、衰退を惹き起こして国家をただちに死滅させることになる。」(同書、61ページ)

 租税とは反対に、財政支出については、濫費は戒めるものの、ただ節約すればよいとは決して言っていない。

「政府は節約に専念するよりも、王国の繁栄に必要な事業に専念すること。なぜなら、支出が多過ぎても、富が増加すれば、過度ではなくなりうるからである。だが、濫費とたんなる支出とは混同すべきではない。というのも濫費は、国民や主権者の富をすべて貪りかねないからである。」(同書、100ページ)

 ケネーの文章を読んでいくと、世俗のイメージ「自由放任主義」とは違って、「国家」や「統治」などの言葉がしばしば登場することに驚く向きもあるかもしれない。だが、『経済表』以外のケネーの論文を精読すると、「農業王国」の実現可能性は「開明専制君主」たる主権者のよき政治にかかっていると主張しているのがわかる(この意味では、「中国の専制政治」1767年と題された論文が必読の文献である)。

 ケネーは外科医としての名声が高まったあと、ルイ十五世の寵妃ポンパドゥール侯爵夫人の侍医としてヴェルサイユ宮殿の「中二階の部屋」に居住するようになったが、『経済表』もそこで構想されたものである。印刷は宮殿の地下にある印刷所でおこなわれたらしい。確かに、ケネーの経済思想には、「土地単一税」のようにラディカルな提案も含まれているが(アンシャン・レジームでは、特権階級としての「地主階級」が様々な課税を免れていたからだ)、「中二階の部屋」の住人として、彼は「開明専制君主」による、いわば「上からの改革」を期待していたのである。この点を誤解してはならないだろう。

「経済統治は富の源泉を開くものである。富が人間を引き寄せる。人間と富とが農業を繁栄させ、交易を拡張し、工業を活気づけ、そして富を増加させ永続させるのである。経済統治は国民の繁栄と勢力との衰退を予防することができる。経済統治の有する豊饒な資力にこそ、王国の他の部分の管理の成功が依存している。経済統治は国家の力を確固たるものにし、他国民からの畏敬を勝ち取り、君主の栄光と人民の幸福を保証するのである。この統治にもとづく見解は、完璧な統治原則をもれなく包括している。この完璧な統治においては、権力はつねに保護的で慈悲深く、後見人らしく、申し分ないものとなっている。そしてこの権力は少しも無理をともなうことがなく、その範囲が拡大しすぎることもないし、不安を惹き起こすこともない。それはいたる所で国民の利害、良好な秩序、公法、主権者の力と支配を支えるのである。」(同書、107ページ)

1 詳細は、菱山泉『ケネーからスラッファへ』(名古屋大学出版会、1990年)を参照のこと。

2 「自由放任主義」と「自由主義」の違いについては、拙著『経済学はこう考える』ちくまプリマー新書、2009年)を参照のこと。

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