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『シャルル・ドゴール 民主主義の中のリーダーシップへの苦闘』渡邊啓貴(慶應義塾大学出版会)

シャルル・ドゴール 民主主義の中のリーダーシップへの苦闘

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「フランスの「偉大さ」を演出した権力者の生涯」

 シャルル・ドゴール(1890-1970)のバランスのとれた評伝(渡邊啓貴著『シャルル・ドゴール』慶應義塾大学出版会、2013年)が出版された。ドゴールは、「救国の英雄」や政党政治を嫌った権力者としてイメージされることが少なくないが、政治家の評価というのは、それほど単純にはいかないものだ。死後40年以上の時間が経って、ようやく日本語でも水準の高い評伝が読めるようになったことを喜びたい。


 ドゴールを語るとき、しばしば引用される言葉があるという。

「生涯を通じて私は、フランスについてあるひとつの考えを抱いてきた。理性と同じく感覚的にその考えが私に宿るのである。私の心にある感情的なものが自然とフランスを思い起こさせるのである。それは、あたかも御伽噺に出てくる王女のようであったり、際立った例外的な宿命に捧げられたかのごとき壁にかかったフレスコ画のマドンナのようでもある。・・・・・要するに、私の考えるところ、フランスは偉大さを失ってしまってはフランスではありえないのである。」(同書、196-197ページ)

 いかにもドゴールが発しそうな言葉だが、彼の生涯の中で幾度も生じた「危機」に際してそれを実践したところが凡人とは違っている。

 例えば、第二次世界大戦中、アメリカやイギリスのような強大国を前にして風前の灯であった「自由フランス」を率いていたとき、何度も挫折を味わったが(アメリカのローズヴェルト大統領がなかなか彼を信用しなかったことが一番大きな要因だが)、ノルマンディー上陸作戦の成功からパリ解放に至るまでの間、戦後構想がフランスを除外した四か国で進められようとする動きに抵抗し、フランスが平和と世界秩序の維持に不可欠な役割を果たし得ることを粘り強く主張し続けた。戦後フランスが国連の常任理事国の一角を占めたのは、彼の努力に負うところが大きい。

 また、アルジェリア独立をめぐって内戦の危機が発生したとき、ドゴールは「強いフランスの再生」のために強大な行政権力に支えられた新しい政治体制の樹立を第一優先した。彼は、かねてより、第二次世界大戦の混乱を招いたのは、第三共和制の下での多党分立の不安定な政党政治であったという固い信念を持っていたのである。いまから振り返ると意外に思えるが、フランス革命以後もっとも長く続いたのは第三共和制であり、行政権力の強大な政治体制は例外に過ぎなかった。著者は、「その意味ではドゴールはフランス政治史上最も偉大な政治体制の生みの親となった政治家であったといっても過言ではない」と述べている(同書、162ページ)。

 ドゴールが生み出した第五共和制憲法に定められた大統領の権限は誠に強大である。具体的にみると、例えば、次のようなものである(同書、163ページ参照)。

 1 国民も議会も大統領を解任することは制度上できない。

 2 大統領は議会の制約を受けず政府を自己に従属させることができる(任期は7年、2001年に5年に短縮)。

 3 首相任命権

 4 一定の内容の法律案を議会の審議にかけず直接国民投票にかけることができる。

 5 総選挙から1年後であれば理由を示さずに国民議会を解散することができる。

 6 緊急措置発動権

 大統領にこのように強大な権限をもたせた第五共和制が現在まで続いており、国民の多くがそれを支持しているのも注目すべきだが、しかし、ドゴールも民意をどのように掌握するかにはずいぶんと苦闘した跡がある。著者は、それを「試行錯誤の歴史」(同書、353ページ)であったと表現している。そういえば、晩年、1968年の5月革命を乗り切りながらも、翌年、周囲の反対を押し切って上院と地方行政制度の改革案を国民投票にかけるという行動に出たが(結果は否決)、これなどは民意を見損なった失敗の例かもしれない。

 外交面では、冷戦時代、西側の盟主アメリカに対する不遜な態度で知られたが、それを大多数のフランス人が支持していたのも事実である。自前の核抑止力へのこだわり、NATOの軍事機構からの離脱、対ソ等距離外交、独仏連帯を基礎にしたヨーロッパ統合の推進なども、そこから自然に導かれる。だが、現実には、フランスにはアメリカに対抗できるほどの政治力も軍事力もない。それにもかかわらず、フランスの「偉大さ」を演出するのが、政治家としてのドゴールの真骨頂であったという著者の見解は正しいと思う。

「ドゴール外交は単なるナショナリズムでもなければ、がちがちに計算しつくされた国益主義外交でもない。それはフランスという国家の威信を高めるための巧みな「演出力」そのものであり、リアリズムに裏づけられていたのである。それを語らずしてドゴール外交はありえなかった。国力に支えられた正しい意味での説得力はなかった。そして多々独断的な論法は人々を不快にした。しかしそこには意思を伴った「する外交」の姿勢が明瞭であった。それは状況対応的な消極的な「なる外交」ではなかった。それは日本外交に最も欠落している点である。国家の行動の演出手段としての外交という理解は私たちには希薄である。そのことはまた「見識」と「意思の力」の問題でもあった。「何をするか」という問いに対してはビジョンが必要であるし、やりとげるという決意があって初めて政策提案には意味があるからである。」(同書、201ページ)

 だが、国民がつねに「ドゴール」を求めるかといえば、事実はもちろんそうではない。著者も、「ドゴールがその真骨頂を発揮するのはフランスが国難に遭遇したときであり、ドゴールの政治活動は常に煽られた危機感の中で高揚したのである」と言っている(同書、356ページ)。ただし、私たちの抱くドゴールのイメージと違って、彼は無私のひとであり、遺言書にも国葬や勲章などを辞退する旨が認められていた(フランス政府の希望で、家族による地味な葬儀とは別に、国葬が執り行われたが)。「政治的戦略と策謀はすべて国家のためであるが、自分自身は高潔であろうとした孤高の人の姿がそこにあった。かつて「追放された王様」と呼ばれた所以である」(同書、355ページ)という著者の言葉が言い得て妙である。

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