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『ことばの由来』堀井令以知(岩波新書)

ことばの由来

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「どっこいしょとは何?」

私のアメリカ生活は35年になろうとしている。英語中心の生活に慣れたとは言え、ときには単語の意味は判っても、何を意味するのかが判らないイディオム(慣用語句)に出会うことはある。例えば、「Tongue in cheek」、これは「冗談を言う、ふざけた」と言う意味である。直訳すれば「舌をほっぺたに入れる」となり、日本語では全く意味をなさない。「It’s kind of a tongue in cheek thing, but・・」などと聞いたとき、私は直ちに日本語の「眉に唾をつける」を思った。「眉に唾・・」は「だまされない」という意味であるから、英語も日本語も同じだろうと、そのまま「本気にしない話」なのであろうと勝手に理解したのである。勿論、ふざけた話などは信用しないわけで、会話にはこのように本来の意味が判らなくても漠然と成り立ってしまうこともあるから面白い。

アイスホッケーなどで使われる「Hat trick」は、一試合で3ゴールを得点した選手を表す言葉である。さぞかし語源は奇術用語で、テーブルの上に置かれた帽子からハト、ウサギ、最後に華々しく万国旗と3種類を出して「パンパカパ~ン!おめでとうございま~す!」・・。まあ、これでも意味は通じるから、いまさら辞書をめくる必要はないのだが、どうやら起源は英国の球技クリケットにあるらしい。

野球用語で左ピッチャーのことを「サウスポー」と言う。「Southpaw」と書き、直訳は「南にある手」である。日常生活で「Paw」を人の手として使うことはない。レッスン中に弟子の手を指して「Your left paw doesn’t move well.」などと言ったら、ハラスメントの罠にかかり訴えられるのは間違いない。愛犬に「お手!」と言うときに「Give me your paw!」、または「Shake hand!」である。

「南にある手」とは左投手がマウンドでバッターと向かうとき、手の甲が南を向くからである。これは映画「ロッキー」でシルヴェスター・スタローンも言っていたから本当であろう。つまりこの言葉が出来た19世紀後半、アメリカにはセンターを東、ホームベースを西に向けて作られた球場が多かったのであろう。

因みに、現在、この伝統に従って作られている球場はNYのヤンキー・スタジアム、とサンフランシスコ・ジャイアンツのSBCスタジアムである。今年優勝したシカゴ・ホワイトソックスセルラー・フィールドのホームベースは北西を指し、逆に呪いの掛けられているシカゴ・カブスのリグリー・フィールドでは南西を向いている。同じくICHIROのプレイするマリナーズセーフコ・フィールドドジャーズ・スタジアムなども南西を指している。クリーヴランドフィラデルフィアのように真南を向いている例外もあるが、大体の球場が西方向を指しているので、どこでプレイしても左投手は「South paw」になると言って差し支えない。

さて、「どっこいしょ、」と言いながら腰を下ろしたりすると、若い生徒たちは歳をとった証拠だと笑う。そんな言葉を聞いて、おいそれと作り笑いで返しても空しさが残る。別にべそをかくことでもないが、地団太踏んで悔しがることでもない。歳をとっているのは事実だが、そんな私に歳を取っていると言うのは、よけいなお節介。ここで説教などをしたら、ぐるになった生徒たちからごたごたとけしかけられ、てんやわんやの騒ぎになろう。面を食らって二の句も継げられず、取り付く島もない私は、けんもほろろにその場を静かに去る。この悲しい話は、「ことばの由来」に載っている語句を、私がむやみやたらに並べて作ったものである。

この本には、「どっこいしょ」「おいそれ」「べそをかく」「地団太を踏む」「ぐるになる」などのことばの由来、本来の意味が書かれている。冒頭に著者も書いているが、「つり革にぶら下がってでも気楽に読めることばの本」である。ただし、両手でぶら下がっては読みにくい本である。私は、この本を読んでいて、「矢が当たってカ~ン・・・」と下げる落語の「やかん」を思い出した。

言葉には時代の象徴として流行語になるが、そのなかで残る言葉もあれば時代の流れと共に忘れられていく言葉もある。人は新しい言葉を求め、若い世代はその世代感覚に会った言葉と共に生きていく。しかし、この本に載っている言葉のように、長い間、日本文化を引きずってきた言葉もある。私は、この皺深い言葉を大切にして生きて行きたい。そのような感情が沸いてくる本だと思った。


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