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『昭和史 戦後篇 1945-1989』半藤一利(平凡社)

昭和史 戦後篇 1945-1989

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 『昭和史』の戦後編が刊行された。五六〇頁を超す堂々たる大著だ。前著が刊行されたのが2年前だから、わずか数年で1000頁以上の書物が生み出されたことになる。
 昭和という元号は1926年から1989年までの64年間を指す。この間日本は、きわめて濃密な時間を経験した。いわゆる「十五戦争」を経て、日本の近代化が欧米の先進諸国に追い付き、世界史の舞台に主役級の一つとして登場したのである。第二次世界大戦ではドイツ、イタリアとともに世界制覇の悪夢に耽り、その結果、一躍悪役としての役割を演じることになった。とくにアジアの諸国からはその印象が強烈で、それまでの平和で穏健なイメージは地に落ちた。戦後の60年はその汚名挽回にいそしんだが、相変わらず失言問題などで他のアジア諸国の神経を逆撫でし、一向に名誉挽回はなされていない。とくに戦争を体験しない世代が大半になり、政治を含めて社会の中枢を占めるにつれて、その負債がいよいよ明らかになってきた。自分が直接体験しないことも「経験」のうちであり、それは「歴史」認識によって一人ひとりに問われてくる。だがこのことが機能不全に陥っているのが昨今の日本ではないか。とくに前世紀末から2000年代になって、「歴史」についてのさまざまな言説−−とくに右側から−−が前面に出てきたことはこの時代の大きな特徴であろう。その意味で、昭和の歴史を語る本書のようなものが必要とされてきたのも納得できるのである。


 半藤氏の歴史観はある原則を持っている。それはあくまで著者自身が歴史の当事者であるという視点だ。だが彼は一介の編集者にすぎなかった。したがって、その視点は歴史の渦中から一歩退いた地点でのものとなる。批評とは対象に対して「距離」を置くことであるとすれば、彼の視点はまさに批評の視点だ。敗戦=終戦の1945年8月15日を15歳の中学生で迎えた著者は、敗戦を理念でなく体感で語った。戦争とは「貧しい」ことだという視点もそこから導き出される。本書の特徴は、敗戦からの数年を異常に長く扱っていることだ。全体の半分はこれに充てられている。戦争−敗戦−戦後処理の数年間、そこに現在へ続く現代史の問題点がすべて出揃っている。これを丹念に見ていくことで、ボタンを掛け違った歴史の迷妄が明らかになるのではないか、そう本書は語っている。


 その意味でもっとも重要な歴史の判断は、天皇の戦争責任であろう。マッカーサーはGHQの最高責任者として日本統治に辣腕を奮った。そのなかで最大の課題は天皇の扱いだった。旧日本軍の最高責任者である昭和天皇は、当然戦争責任がある。それを天皇は認め、事実何度も「退位した方がいいのでは」と部下に審問しているし、当時の新聞やラジオでもそのことは報じられている。けれども、それをもみ消したのは、GHQであった。天皇を戦後のシンボルに利用し、国家統合の精神的支柱に据えようと画策したのだ。天皇制が廃止されなかった理由はここにある。だがこれは果たして的確な判断だったのか。著者はここで一般庶民の視点を導入する。いわく「天皇は庶民に愛されていた」云々と。庶民感覚にとってたしかにそれは偽らざるものだったろう。だがそのことに釈然としない者たちが厳然と存在することも忘れてはならない。天皇の臣民として海外に派兵されていった朝鮮、台湾の人たちだ。彼らの思いはどうだったのか。先日、『あんにょん、サヨナラ』(監督キム・テイル+加藤久美子)という日韓共同制作の映画を見た。「日本人」として派兵された朝鮮籍の人間が、勝手に靖国神社に合祀されたことに抗議する遺族を扱ったドキュメンタリー映画だ。相手の気持ちを慮らない日本人の典型がここにある。相手の気持ちは自分の事情に優っているはずだ。自分らの思惑以前に、「こんなことをしたら、相手はどう思うだろう」と考えることが人間が社会のなかで生きていく上での基本だ。これを言い換えれば、「他者との関係をどう生きるか」になる。ところがこの想像力がいちばん欠けているのが日本の歴史ではなかったか。


 こういった思考を具体的に実践するのが、演劇である。古代ギリシアに演劇が誕生した時、対話をベースにする演劇が国家の存亡を問う機会を市民たちに与えた。劇場のシアターはセオリーの語源でもある。つまり理論=理念は民衆が一堂に会する劇場においてなされ、決定されてきたのである。だが現在の政治は、公的な場での議論、対話が無視されている。小泉首相の記者会見はまるで「対話」にならず、一方的な独演会に終始する。それを切り返す知性溢れる記者の質問もない。ある意味で、これが日本の議論の水準であり、つまりは知性の水準である。


 この本の最大の特徴は、著者の語り掛けで展開されていることだ。実際に何人かの聞き手に向けて、半藤氏が講義−−というより寺子屋風問答−−することで成立している。たぶん、受講者のうなずきがあったり、反応があるのだろう、その瞬間、氏の悪乗りのような脱線があったりして、堅苦しい雰囲気がちょっとだけなごむ。こうした演劇の手法が採用されている分−−本来、講義という形式もまた演劇的対話である−−、講義は一方的に教えるだけでなく、相手のリアクションを織り込みながら進行していく。聞き手が納得する形式になっているのはそのためだ。聞き手はここでは重要な活性剤だ。

 著者は断定的に意味を決定しない。あくまで素材を紹介し、共通の思考の教材にしながら判断を読者や受講者に委ねていく。ただし考える素材はかなり徹底していて、未公開資料も用いられている。とくにマッカーサー天皇の会見などは、芝居顔負けのスリルがあり、歴史の局面に遭遇するとはこういうことかという迫真性が立ち現われてくる。こうした語りを成立させえたことが、本書の成功の秘訣であろう。


 「東京裁判」もまた後世に禍根を残した。この裁判によって「太平洋戦争」は裁かれたかというと、そうではないだろう。戦勝国敗戦国への一方的な断罪だ、という日本側の言い分は現在再び力を得ている。だが韓国併合をめぐる賠償問題は一向に埒が明かないことに同じ人物は口を噤んでしまう。これは明らかにフェアではない。韓国や中国の日本への不信感はつまるところ、戦争責任のうやむやさに起因する。だが日本人はそれは彼らの言い分であって、われわれは過去の清算が済んでいると発言するだろう。どこまでいっても議論は平行線をたどり、歴史はいつまで経っても清算されない。こうした時に、もう一回素材に立ち戻るしか手はないだろう。その遠因は繰り返すまでもなく、昭和天皇の「戦争責任」を不問に付したことである。その時、著者は「日本人は歴史を習わない、知らない人がどんどん増えてしまいました。」(142頁)と断言するのだ。


 ではこうした歴史の認識から、わたしたちはどうあればよかったのか。歴史の「イフ」から仮説を立てることである。

 今年の7月に上演された井上ひさしの新作『夢の痂(かさぶた)』は東京裁判三部作の3作目に当たる。この舞台で昭和天皇に擬せられた主人公が、夢のなかで見たお告げを語るシーンがある。それは「天皇を退位する」というものだ。井上の芝居はあくまでフィクションではあるが、間違いなく作者は「歴史のイフ」に答えようとしている。作者は歴史を蔽っている「痂」を剥がそうとした。これが上演されたのが新国立劇場、国家が運営する劇場であり、そこで天皇制の存続に疑問符が突き付けられた。歴史の仮説はあくまで表現の領域だ。だがその仮説からわたしたちは議論が始めることができる。歴史は芸術家のメッセージを生み出す源泉である。


 後半部になると、記述が駆け足になっていく。著者も言うように、まだ歴史化されていない「現代史」だからである。著者の見取り図はこうだ。戦争−戦後を通じて、「政治」が前面に出た。それが60年代前半まで続き、やがて焦点は「経済」に移っていった。高度経済成長の時代である。さらに記述は「文化」の80年代にも及ぶだろう。してみると、90年代以降は「宗教」の時代と総括されるかもしれない。残念ながら本書の記述は1972年前後で止まっている。その後の歴史は後続世代にゆだねようという心つもりだろうか。

 歴史とは過去の事象の記述だと思いがちである。だが本当は、現在から見た過去の読み直しに他ならない。その時、その場にいた人びとはどう思っていたのか。正確なところはよく分からない。だからこそ、その時代の現在を仮構し、舞台の上で演じられているのを観察するように思考してみる必要がある。半藤=昭和史はそのことを実践してみせた。語り口も含めて、今後、さまざまな歴史を語る上で格好のサンプルになるだろう。

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