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『中田英寿 誇り』小松成美(幻冬舎)

中田英寿 誇り

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[劇評家の作業日誌](28)

中田英寿の右足から繰り出されるアーリークロスが忘れられない。

16歳の彼はまだ胸板の薄い、あどけなさを残した少年に過ぎなかった。周りに使われ、右タッチライン沿いをゴムまりのように疾駆する姿はまるで小ウサギのようだった。20歳になった彼は、年長プレーヤーを過酷に走らせるパサーに変わっていた。ゴールラインめがけて強く放たれた彼の足の長いパスは、必死に追いすがるプレーヤーも結局届くことができなかった。だが、パサーへの怒りは不思議に湧かなかった。こんな凄いパスを蹴る奴がいるんだ! 驚きとともに、むしろ嬉しさがこみ上げてきた。わたしの目にはそう映った。

 

最初のシーンは1993年、17歳以下のワールドユースの一齣であり、二つ目の光景は1997年5月21日、日韓定期戦で代表デビューを飾った中田のプレーである。わたしの記憶に間違いなければ、追いすがるプレーヤーは山口素弘(現・横浜FC)だった。中田のパスは停滞していた日本代表チームの壁を切り裂き、風穴を開けた。アーリークロスとはチームを前へ押し上げる「突破口」のパスなのだ。いずれもピッチはサッカーの聖地・国立競技場である。

昨年、突然ユニフォームを脱いだ中田英寿の『誇り』と題する本が出た。著者の小松成美は、前著『鼓動』でも中田の近傍にいて、彼の一挙手一投足を記した。そして今著では、中田が「引退」という人生の節目を意識した2005年12月から、実際に公表する2006年7月までのドキュメントを綴った。中田の発言はもとより、彼を取り巻く複数の人たちを取材することで、「引退」にまつわるそれぞれのドラマを浮かびあがらせたのだ。

中田は引退について、こう語っている。

おれの頭の中でイメージするプレーは日々、進化するんだよ。自分にはその体力もあるし、理屈も分かっているんだ。だけど、実際プレーすると、そこには誤差が出始めていた。その誤差は、縮まるどころか開く一方だ。頭の中で進化し続ける理想のサッカーに自分は到達できない。そう思ったとき、おれ自身への失望があった。この失望を感じたとき、プロから引退すべきだという答えが導きだされたんだよ。(57頁)

これは、「中田以外の選手なら、引退という選択には至らなかったろう」(58頁)というほどプロサッカー選手としては理解しがたい選択だ。周囲の者たちは彼がまだまだ現役でやれると思っていたし、事実有力クラブからのオファーも届いていた。なのに・・・。そこに希代のプレーヤーの独自の価値観と生のスタイルがある。

この十余年間、中田英寿は日本サッカーの革命児であり続けた。デビューから引退するまでの十余年間、彼のなかで一貫して求め続けてきた「理想のサッカー」があったはずだ。それが不可能だと身体が知ったとき、必然的に「引退」の二文字が浮かび上がった。「引退」は誰もが一度は経験する。たいていの場合、本人以外の者がその時期を予感しはじめる。本人が自らの意志で決定することはきわめて難しい。だから定年といった向こうから来るタイミングに乗じて、仕事からリタイヤするのが通例なのだ。そして本書の目的の一つは、一人のアスリートがいついかなるタイミングでそれを知り、いかに実行に移すに至ったかを見極めることにある。

中田はイタリアのパルマという有力クラブに移籍し、そこで辛酸をなめた。本来ならば彼はこのクラブで頂点を極めるはずだったのに、監督の起用などでサッカーを楽しめなくなった。「おれの中で何かが壊れた」(317頁)と当時のことを彼はそう記している。01年は彼にとって最初の試練の日々であり、完全主義者の彼にとって、それは十分「引退」を意識するに価する危機だったろう。

本書はまた、彼の決意を「受け入れた」周囲の者たちのドキュメントとしても読むべきものがある。それは中田プロジェクトを構成する<チーム>の存在だ。二人の女性マネージャー、専属トレーナーやマッサージ師、そして代理人。一人のプレーヤーが「世界」に出て行く際にこれだけの人間が関わっていたということは驚きだ。サッカーというビッグビジネスは、純粋に「サッカーが好きだ」という少年のココロで接するわけにはいかないレベルにある。しかも「中田プロジェクト」に賭けた、それぞれの人生も半端ではない。

例えば、毎日国際電話して現状報告を逐一行なっていたマネージャー・次原悦子。彼女の人生もまた、「チーム」を構成する最重要なモーターだった。超一流のプロサッカー界に生きることがどれほど神経をすり減らす仕事であることか。移籍をめぐる駆け引きは、さながら経済書を読む趣きすらある。その真っ只中に打って出た一人の青年中田。それは実業家のイメージとダブってくる。しかも彼の周囲の者たちは誰もが彼に好感を持ち、彼と冒険できることを心底から喜びにした。同じ船に乗り合わせた運命共同体の一員として、彼らは中田をリスペクトしていたのである。彼はサッカーというゲームを動かすのみならず、中田カンパニーをも動かしていたのだ。

中田は最後の代表チームとして参加したドイツ・ワールドカップで苦い体験を積み重ねていく。仲良しグループに向けられた彼の視線は厳しかった。とことんまで自分を追い込むことなく中途半端な覚悟でピッチにあがる選手たち。これでは勝てないな、と中田は確信したという。中田の意識とは違い過ぎた。チームに合流してから溝が埋まらないまま、やがてチームが崩壊していくことは自明の理だった。いちばんショックだったのは、敗戦直後に平然としてゲームに興じて笑っているプレーヤーがいたことだ。実力がありながらそれを発揮できないメンタリティの弱さ。プロ意識の低さ。勝利への執念に希薄さ。それはそのまま日本人論であり、現代の若者論である。

中田と彼らを分かつものは何か。それは危機を意識し自覚した「前衛」とそうでない者たちの差であろうか。サッカーが上手いだけでは一流になれない。技術だけなら、小野伸二は中田をはるかに凌ぐだろう。だが“天才”小野がオランダでも浦和レッズでもくすぶっているのは何故か。「ワールドカップに持っていくものは?」と聞かれて、「選手間で流行っているゲームですね」(274頁)と答えた小野のコメントが紹介されている。おそらく半ばリップサービスのつもりもあったのだろう。おどけながらコメントする小野の姿が容易に目に浮かぶ。それでもなおこの発言を知った中田の愕然とした気持ちはわたしも理解できる。そこに中田と他を分かつ「知性」の差を感じるからだ。

孤立無縁だった中田もホンネを漏らしている。もしもこのチームに自分のヴィジョンを共有してくれる者がいてくれたら、もっと楽にやれたのに。そこで出てきた名前が、フランス・ワールドカップのチームメイトだった名波浩だ。「おれのわがままをすっかり引き受けてくれる名波のような選手がピッチにいてくれたらと、思った」(361頁)。思わずホロッとさせられるエピソードだ。チームとは生きものである。たった一人のコマが加わることで、チームはまるで別物に生まれ変わる。ちょうどフランス・ワールドカップ予選を直前に控えて代表チームが停滞していた時、中田が一人加わることで一挙に活性化したように。こういうサプライズを最後まで信じていた中田だったが、結局それは叶わなか

った。敗北を噛み締める彼の心は重い。

本書はこうした中田の内面深くに及ぶ発言の他に、面白い裏話的なエピソードが多々紹介されている。97年にイタリア・セリアAのペルージャに電撃移籍した時の詐欺まがいの話。食わせ物のガウチ一族に翻弄された日々は、外部にいてはまったく与り知らぬ話だ。またコンフェデ決勝進出を決めて、その日中にイタリアに戻らねばならなかった際のトルシエの傍若無人ともいうべき奇行。中田はイタリア行きの準備をして皆と別れのあいさつをしようとしたところ、トルシエは皆と同じジャージを来てこいと命じ、ヤレヤレと思いながらも、エキセントリックなフランス人に付き合って命令に従った中田の心中が察しられる。

あとがきで著者は中田の興味深い発言を引用している。

おれさ、小学生の頃がいちばんサッカー上手かったんだよね。後ろを振り向かなくてもすべてが見えていたんだ。誰がボールを持っていて、どこにボールが飛んでくるのか、全部わかっていたんだから。おれのライバルはね、他の誰でもない、小学生の自分自身なんだよ。(383頁)

『中田語録』の中に記された一文である。これは彼の「天才性」を言ったものではない。子供に備わった「天賦の才」は誰もがかつて所有していたものであり、それをほとんど誰もが忘れ去ってしまっているという事実を語っているのだ。中田の引退のさいのコメントで、わたしはこの一文を思い出していたのだが、著者もまたこの言葉を想起していたことを知って、我が意を得た思いがした。

これはもう時効だから言ってしまうが、実はわたしはかつて中田のこの文章を引いて、小論文の試験問題に使ったことがある。「自分のライバルとは誰か」を問うたものだった。残念ながら、「小学生の自分」に匹敵するようなユニークな答案はなかった。

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