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『わたしのリミット』松尾由美(東京創元社)

わたしのリミット

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「物語はひとつではない」

 わたしの実家は戦前に立てられた古い平屋建てである。おそらく当時はちょっと珍しかったかもしれない洋風の部屋もあり、文化住宅風の家といえるかもしれない。そういえば少しは聞こえがいいが、なにしろ古ぼけた家なので、近所の住宅が次々にモダンに建て替えられていく中で、わたしの実家だけが時が止まったようになっている。よいところといえば、風通しがいいところ(だが冬は寒い)と、収納がたくさんあるというところだ。昼でも暗い廊下の突き当たりや、縁側の奥にある扉の向こうに何が入っているのか、子供の頃は怖くてあけることができなかった。

 そもそも、その扉がひらくことはめったになかった。

 といっても鍵がかかっていたわけではない。立て付けが悪くて開かなかったからだ。それに入っているものといったら、せいぜい古いアルバムとか父が講読していた『レッツ碁』のバックナンバーとかそういうものくらいだったわけだし、開ける必要さえなかった。

 しかし、子供のわたしにはこわくて近づけない場所でもあった。そこに何が潜んでいるのか、わからなかったから。あるいは、そこからなにかが出てくるのが。

 松尾由美の『わたしのリミット』を読んで、ふとそんな幼い頃の記憶が蘇ってきた。まわりから「お化け屋敷」とからかわれるほどの古い洋風の住宅に父親とふたりで住む高校生の少女・坂崎莉実は、ある朝おきると父親がいなくなっていることに気づく。その代わり残されていたのは、父からの書き置きだった。そこには一ヶ月家を留守にするということ、そして自宅の「開かずの部屋」の扉をあけることだった。

 物語の時代は携帯電話が出回り始めた一九九一年。父親の所在を携帯で確かめることはできない。莉実は言われたとおり、ふだんは施錠されていて開くことのない「開かずの部屋」へ向かい、ドアノブに手をかける。扉が開いて、その向こうにいたのは、中学生とおぼしき少女だった。素性を語らぬ少女の横に置かれていた父親の書き置きは、この少女を「坂崎莉実」として近くの病院に入院させること、だった。莉実は戸惑いながらも、少女をリミットという名で呼ぶことを決め、彼女の面倒をみることになる。

 いったいこの少女はなにものなのか。父親はどこにいったのか。

 物語はこの謎に向かって進むことになる。

 『わたしのリミット』は入院中のリミットのもとに見舞いに行く莉実が、身の回りにおこった不可思議なことや、一見すると見逃してしまいそうなことだけれども、よく考えるとつじつまが合わないようなことを報告し、それについてリミットがアームチェア・ディテクティヴよろしく、自分の見解を披露しながら物語が進んでいく。たとえば、クラスメイトに聞いた「同じ柄でサイズ違いのパジャマを買う女性」の話や、あるいは莉実が持って行った傘が誰かに盗まれたりしたことなどだ。

 本書でもっとも味わいぶかいのは、こうしたちょっとした小さな日常の中に謎を見出してく莉実と、その謎に物語を与えていくリミットのコンビネーションだ。答えを見つけたい莉実と、さまざまな示唆を与えながらも「あくまでも可能性の話よ」と、ひとつの物語に回収されないように−−物語にはつねに複数の可能性があることをほのめかすように−−巧妙に推理するリミットの対比が、ラストであかされる二人の関係の可能性をより忘れがたいものにしている。

 リミットと莉実、そして姿を消した父親の関係は、リミットによって推理能力−−物語を探す能力−−を高められた莉実がみずから答えをみつけることになる。読者によっては、莉実よりも早く三人の関係にあたりをつけることができるだろう。その意味では、ラストの展開にさほど驚きを感じない人もいるかもしれない。

 しかしながら、わたしにとって本書の読みどころは、むしろ普段見逃していることに気づくこと、ささやかな謎に向き合って考えること、のように思える。たとえば自分の気持ちとか。そしてその複数の物語のどれを、自分が選ぶのか。

 こうした物語の複数性は、おそらく未来や過去についてもあてはまる。こういう可能性があった、こうもできたかもしれない。あるいはもうすこし経てば、こうもできるかもしれない。わたしたちはこうした可能性につねに囲まれている。そしてその物語をひとつずつ、自分で選び取っていく。

 リミットが折に触れて「こういう考え方はどうかしら、と言っているだけの話よ。こうにちがいない、なんて決めつけるつもりはぜんぜんないの」と語るとおり、ある出来事には複数の物語の可能性がある。それは莉実とリミット、そして父親との関係にもあてはまる。たった一つの物語に回収されない可能性とは、まさに「開かずの扉」を開ける前のなにが出てくるかわからない、という恐怖と不思議な期待感を想起させる。『わたしのリミット』は、そんな日常の出来事にはつねに物語が−−複数の物語の可能性が−−あることを気づかせてくれる一冊である。


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