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『son of a bit』内原恭彦(青幻舎)

son of a bit

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「デジタルな状況を生き抜く覚悟」

最初のページにあるのは、廃品を寄せ集めてブルーシートで覆った、雑草だらけの河原にある小屋。ページを繰ると、今度はアップで撮った廃物が目に飛び込んでくる。プラスチックのオイルタンク、ロープ、電気の笠、竹箒、錆びた機械。つぎのページはタンクローリー車で、そのつぎは張り付いたタイ文字のノートと、それをはがす手。

写真はそれからアジアの街角へと移って行く。行き場のない人やモノたちが吹き溜まるスラムがつづき、オイルと排気ガスと腐った食べ物の臭いに取り囲まれる。地名が明かされないことが、かえって都市の普遍性を直感させる。

ここから矛盾や悲惨さを感じとるには、見る側が別の場所に居なくてはならないが、写真の発するものが自分と地続きで言葉が成り立たない。批評が追いつかない速度感があるのだ。

ページが進むうちに生き物の気配に惹き付けられた。ただ廃品の氾濫を見るだけでなく、そこにある生の痕跡を見つけて反応しようとする。人がいる。犬がいる。蜂がいる。豚がいる。鶏がいる。快適とはいいがたい場所に、増殖のエネルギーが渦巻いていることに圧倒される。

合間に挟み込まれたノートパソコンに見入る人の写真が暗示的だ。整頓されたオフィスではなく、物の散乱する汚れた部屋やビルの屋上でキーを叩いている。顔が青白く照らされ、スクリーンを見ているより、むこうから来るものにその人が見られているような印象を受ける。

都市はいったん生まれてしまうと制御がきかず、それ自身の運命を生きて行くしかない存在だ。人が造ったにもかかわらず、人の手を離れて増殖しつづける。そうした都市のイメージは、世のデジタル化が進んだことで、より一層明確になってきたのではないだろうか。

インターネット上を流れる大量な情報と、それがクリックひとつで消去されたり更新されたりするスピード感は、都市の増殖のエネルギーに驚くほど酷似している。だれもがこの小さな函の中に都市を感じているはずだ。ヒマラヤにいようが、パタゴニアにいようが、この平たいボックスがあれば、都市はすぐそばに立ち上がる。ジャンクヤードのパワーは、インターネットのアナーキーさと同質なのだ。

著者の内原恭彦は東京をはじめとしてさまざまな国の首都を、毎日6時間くらい自転車でさまよい、イメージの捕獲をつづけているという。フィルムではあり得ない膨大な量の撮影を、デジカメが可能にしたと書いている。デジタルを自明なものとして、その状況を身に引き受け、新陳代謝するようにシャッターを切りつづけているのだ。デジカメ映像の良否を議論するようなのどかさとまったく別の位置にいるのがわかる。

だが、そんなふうにやみくもに視覚を更新しつづけるなんて、狂気じみた行為ではないか。写真集にはそれがもたらす不穏な空気が漂っている。デジタルな状況のまっただ中から届けられた映像というのを、これほど強く印象づける作品集に出会ったのははじめてだ。

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