書評空間::紀伊國屋書店 KINOKUNIYA::BOOKLOG

プロの読み手による書評ブログ

『ECDIARY』 ECD著 (レディメイド・インタ-ナショナル)

ECDIARY

→紀伊國屋書店で購入

あるラッパーの思想と行動

1979年、ニューヨークのソーホーで、「キッチン」という、文字どおり台所を改装したライブ・スペースで、奇妙なパフォーマンスを見た。アームの先にポータブルのレコードプレイヤーをつけた、形はエレキギターそっくりなものを肩から下げた男が現れ、プレイヤーの上で回っているシングル盤を、ガットをかきならすように手でこすったり逆回転させたりしたのだ。名前は憶えていないが、若いドイツ人のパフォーマーだった。

終わって彼に話を訊くと、楽器が弾けないのでこれを考案したと言い、音楽をやっていると「なんの楽器?」と人に訊かれるけど(ここからは英語でないとオチない)" I play redords"と答えるのがおもしろいんだ、と言って笑った。ご存知のように英語では楽器の演奏をplayと言うが、レコードを掛けるのも同じplayだから、「レコードを演奏する=I play redords」という表現が成り立つのである。

このパフォーマーがヒップホップを知っていたかどうかはわからないが、従来の価値観を覆す動きは地下水のように同時に噴出するるものらしく、間もなくラップミュージックが巷を席巻し、広げた段ボールの上で体をスピンさせるブレイクダンサーたちが、ストリートのいたるところで見られるようになった。

前置きが長くなったが、それもこれも日本のラップミュージックの先駆者ECDの三カ月の日記『ECDIARY』を読んだ効用である。当時の感覚がひとつひとつよみがえってきて、レコードを演奏して別の音楽を生み出すのは音楽史の革命だったことに、改めて思い至った。

三カ月は日記として短すぎると思うかもしれないが、そんなことはない。ラッパーである彼の生き方が日々を語る言葉の中に詰め込まれていて、読むうちに細胞が湧き立ってくる。情報や知識をつづるのではなく、むしろそれを突き崩そうとする意欲が、ヒップポップカルチャーが登場したあの70年代末のニューヨークへと、私の記憶をさかのぼらせたのだった。

たとえば、2004年3月3日の日記にはこうある。朝テレビをつけると今日の運勢をやっていて、自分の星座を見ると今日は最悪と出ていた。朝から最悪と言い渡されること自体が最悪で、占いが当たってしまったことになるが、このあと一日は最悪なことはもう起きないだろうとタカをくくって、こう言う。

「戦う相手は今日の運勢だ。考えてみれば、死ぬことがわかっているのに生まれてくる、それ自体が運命に対する抵抗である。生きることイコール無駄な抵抗。それで結構!」

ヒップポップ・カルチャーが本来持っている抵抗の姿勢、納得できないことにノーと声を上げる勇気、長いものに巻かれない生き方が、言葉の端々ににじみ出る。イラクの日本人人質事件や輸入盤規制などの社会問題も取り上げるが、ふだんは世間にモノ申す的な文章を敬遠しがちな私の中にも、素直に入ってくる。

「自己責任論」を唱えて日本中が人質家族へのバッシングしだしたとき、彼は気分が鬱屈し、ライブで思いっきりプレイできない自分を感じる。だがそのライブ録音を後で聞き直すと、今までのベストテイクではないかと思える曲があった。

「気にする自分より演っている自分の方がエラい。こんな風に思えるのは音楽をやっていたおかげだ。自律できる自分だけが自分ではない。音は自分が律する以上のものになることもある」

自分のやったことに救われるのは、自己陶酔でもうぬぼれでもなんでもない。自意識から自由になることで見えてくる自分がある、ということだ。刻々と変化する自己を観察し、自分の中に自分を超えようとするものを発見して、生きる力にしていこうとするポジティブな態度がもたらす恵みである。

ECDは小説も書き、両親の記憶について書いた「迷信」が本書の最後に収められているが、小説を書くという作業についても、含蓄のあることを語っている。彼が子供のころ、母親がヤクルトおばさんをしていた。そのことを恥ずかしいと思ったことはないが、母親のことを想ったときに、その姿が真っ先に浮かぶ像なのはなぜだろうと自問し、実際は恥ずかしいと思い、その葛藤があったからこそ、これほど深く記憶に刻まれているのではないかと思い直す。

「ヤクルトおばさんの母親を恥ずかしいと思った少年が主人公の物語、恥ずかしいと思わなかった少年が少年の物語。どちらも作ることができる。ちょっと前までの僕は恥ずかしいと思わなかった自分の物語を信じて生きていた。どうも、最近は恥ずかしいと思った自分を生き直そうとしているような気がする」

見た光景の記憶は変わらなくても、それをどう感じたかという記憶は、さまざまに捏造される。人は自己の中で作り上げた物語を心の支えに生きている。よく「自己を掘り下げながら書く」というような言い方が小説についてなされるが、この表現には確固たる自己がどこかに埋まっていてそれを探して掘り出していくかのようなイメージがあるのに対し、ECDはそうではなく、「本当に優れた私小説というのはその捏造を暴こうとするものだ」と書く。

「その捏造」とは、「自分が信じてきた物語」のことだ。これまで捏造してきた記憶を暴いて自己審判にかける。書くとはそのような行為であり、さらに突き進めるならば、人間の生命運動がそのように営まれているとも言えるのである。

ヒップポップは既製の楽器を手にできない、あるいは手にしてもうまく弾けない、そんな欲求不満がバネとなって生まれてきたものだ。ECDはラップを演じようが、小説を書こうか、行為の奥にその出自が流れているように思える。自分がどういうところから出てきたかを忘れない。忘れないが、それに固執もしない。自分が律っすることのできる以上の者になれる瞬間を知っている者の強さがある。