書評空間::紀伊國屋書店 KINOKUNIYA::BOOKLOG

プロの読み手による書評ブログ

『 斜線の旅』管啓次郎(インスクリプト)

 斜線の旅

→紀伊國屋書店で購入

「生命運動そのもののような旅のあり方」

この本を読んでいるあいだずっとふんわりした至福に包まれていた。日常を変えてしまうような急上昇の興奮ではない。時間の色が変わり、ルーティーンワークすらが楽しくなるような変化である。生活というのは繰り返しで、繰り返しが得意でない私はときどきそのことに苛ついたりするが、この本をかたわらに置いて1篇ずつ読むことでそれが避けられた。本はやっぱりありがたい。

旅の本である。いろいろな旅がある。フィージー、タヒチニュージーランドクック諸島、トンガ、イースター島ニューオリンズ、パリ、ナント、知床、下北半島武漢……。だが単なる旅の報告とはちがう。あの旅の経験をこの旅で思ったことと結びつけ、そこからなにかの認識を導き出し、それをつぎの旅に接続し、そこから生じた考えをまたつぎの旅で育てていく。歩行と思索が一体となった生命活動に重なってくるような旅。読めばおのずと精神が快活になってくる。

「驚くべきことをまのあたりにした人は、その事件を言葉に編み上げ、人に語るべきだと思う。目が覚めるような話を耳にした人は、その話を中継し、さらに語り直すべきだ。その連鎖には、もちろん数々の嘘や誤解がつけいることだろう。しかし少なくとも連鎖を続けてゆくこと、とぎれさせないこと、最終ヴァージョンの存在を許さないことが、人々の興味を対象につなぎとめ、つねに新たな見方や思いがけない知識を呼び込むことになる」

24篇の多くが島での体験や思索を書いており、島空間というテーマが通奏低音のように流れている。なぜ島なのか。「島は人を、何かの出発点まで引き戻す。引き戻してくれる」場所だから。たしかにそうだ。アイシングが塗られすぎの都市では人の営みのかたちが見えづらいが、島にいけばたちどころに物の起源がわかり、自分の足元が明るくなる。

「島旅ひとつ、また」はイースター島への旅を書いたものだ。旅の動機は「ポリネシアの三角形を完成させること」。著者は若いころにハワイに暮らした経験があり、最近では大学のサバティカルニュージーランドに1年間滞在した。この2つの場所とイースター島を線で結ぶと巨大な三角形ができる。このポリネシア圏では言語やライフスタイルに共通点が多く、人が海を渡って移動した長大な道のりが想像できる。「地球上でもっとも広い面積に拡散した、最大の文化圏」なのだ。その事実にわくわくし、三角の残る1点を自分の目でたしかめる見べく旅立つのだ。

彼は言う。自分の旅は徹底的に観念的なものだと。それが弱みであり、強みでもあると。

「弱みだというのは、いうまでもないだろう。いらないことばかり考えて夢遊の足取りで歩くため、目の前のこと足下のものに気がつかない。見すごす、聞き逃す。出会いをあらかじめ見失い、具体的な経験をばかばかしいと取り逃がす。そして一粒の麦や米から、唐突に世界史や「国際関係」の非情を思って、ひとり呆然と日暮れの海岸にたたずんだりもする。観念的であるがゆえに楽しめない性格のつけは、すでに充分に支払ってきた。だがその一方で、そもそも観念的な工程を脳裏に描かなければけっして行かない場所に行ったりもする」

この一節に私は深く納得した。そういうことだったのかと腑に落ちた。自分の旅の仕方はその逆だからだ。イメージや、気分や、気候や、友人がいるという現実的な理由や、それやこれやの思いつきの総合によってなんとなく旅先が決まる。それは心の波長とチューニングする感じに近く、うまく合えばいいけれどそうでないと気分がのれないまま帰ってくることになる。そういう行き当たりばったりの旅をしてきた結果なのか、最近自分の「旅力」が減ってきたのを感じていた。

この世には、見ようという意志をもって見ないかぎりは見えてこないものがある。「旅力」の減退は目に見えるものしか関心をもってこなかったツケとも言える。市場経済がゆきわたり、グローバリズムが進行し、どこの風景も似通ったものになっている今、旅に出ても「別に来るほどのことはないなあ」とつぶやきがちではないだろうか。

感覚だけを頼りにした旅の弱さがここにある。ここを押せば気持ちがいいというツボの在りかは知っているが、ツボとツボが連鎖して生み出すダイナミズムをつかんでない。いきおい、旅が点の散在に終わって先細っていく。耐久性のある旅にするには点のつなぎ方を学ぶことだ。モアイ像をみてぎょっとなるだけでなく、頭の筋肉をつかって思考する。その想像力がつぎの旅の動力となるのだ。

この本をすがすがしいものにしているもうひとつの理由を述べよう。「観念的な旅人」はとかく悲観的になりがちで、地球や人類の未来を嘆き批判するあまり、説教がましい口調になったり、世の中に警鐘を鳴らす式の文章になることが多いが、この本にはそうしたネガティブなトーンがない。「最終ヴァージョンの存在をゆるさない」情熱のようなものが書く推進力となっている。本質的に詩人の文章なのだ。

たとえば「青森ノート」には、恐山の俗っぽい光景に唖然となりながらも、強い風に狂ったようにまわる風車に突発的な清浄感を感じとる箇所がある。

「この土地に死後はない、魂はない。ただ遺され生きている者たちの、やり場を知らない悲哀、考え抜かれることのない喪失感が、なんということもない石ころのように投げ出され、転がっている。」

また「オタゴ半島への旅」の小型ペンギンの群れを見に行くシーン。海から一斉に上がったペンギンたちが濡れた体と翼をふるわせながらまっしぐらに海岸の藪へとよちよち歩いていく。「観客は、うれしくて大笑い。」

「かれらが見せてくれるのは、悠久であり、進化の時間であり、太陽と月の巡りであり、潮の交替だった。見ていると、生命の糸の何かがそこにあらわになっていることを思う。そこには何か、さびしい感動がある。そしてかれらの日々の上陸を(また多くの他の野生動物たちの恒久を)維持するために、ここらでヒトという種が滅びを選ぶのもいいんじゃないか、とさえ思えてくるのだ。」

こういう想像や思索が日々の色を変化させ、至福のときを運んでくるのだ。


→紀伊國屋書店で購入