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『ケンブリッジ・サーカス』柴田元幸(スイッチ・パブリッシング)

ケンブリッジ・サーカス

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「亡霊」にガイドされる記憶の旅

フリーで仕事をしているなら曜日など関係ないようだが、ウィークデーは世間とつながっている感じがし、それがオフになる週末はやはりほっとする。週末は時間の流れ方が変る。現実とのリンクが薄らぎ、その分、意識が自由に浮遊する。そうした週末ならではの時間感覚は、よい本に巡りあえるとよりいっそう濃くなる。

生れ育った大田区六郷、学生時代にヒッチハイクしたイギリス、若いころに行き、作家と会うために再訪したニューヨーク、兄の暮らしているオレゴン……。アメリカ文学の翻訳者として活躍する柴田元幸が記憶の場所を旅した。

凡庸になりがちな流れをうまく堰き止めているのは、亡霊の存在である。夜中に酔っぱらって帰宅すると、居間のこたつで一人で勉強している少年がいる。自分で組み立てたトランジスタ・ラジオが横にあり、イヤホンで音楽を聴きながら、2Bの鉛筆でやさしい英文に書き直したO・ヘンリーの短編を日本語に訳している。

現在の住まいは生れ育った平屋を取り壊して建てた3階建てで、居間だった1階は書庫になっているが、その暗がりに少年時代の自分が見えるという冒頭のエピソードは、紀行文と回想記があわさったようなこの不思議な作品集の骨格を明かし、あとの物語をつなぎとめている。

若いころのイギリス体験を書いた「僕とヒッチハイクと猿」では、亡霊の影は二重、三重になり、存在を強めていく。かつての自分を見かけたと主張する人たちに出会うくだりは、一篇の短編小説と描写したくなるような内容だが、後に残る感覚は小説の枠内で書き表されるものをはるかに超えている。足下をぐらつかせるに充分な妄想と現実の逆転があるのだ。

生きて存在している現在の自分は、生きなかった膨大な時間のネットをあみだくじのようにたどり至った通過ポイントにすぎない。しかも「いま」の地点は、つぎの瞬間には別のなにかの到来によって崩れてしまうかもしれない。そんなあやうい生のありようは、ケンブリッジ・サーカスでロンドンっ子を気取ってカーブを切ったバスから飛び降り、バランスを失って倒れて三転した体験をもとに書かれた、過去の自分といまの自分が交錯するストーリーからも充分に伝わってくる。

子どものときから勉強はできたが、運動神経が鈍く、「何の障害物もない平らな道を歩いていたってしょっちゅう転ぶ」ことがいまも多いという。ニューヨークに発つ二日前にも、大学の裏手で転んで左右のつま先の小指をくじき、痛み抱えつつ雪のニューヨークに下り立った。傷を負った箇所というのは「霊的なものに反応しやす」く、したがって亡霊との接近を容易にする。

ポーが好きだったというリバーサイド・パークのマウント・トムという大岩に上がったり、父の死後、潜水病にかかり、現場に行けずにブルックリンの自宅から望遠鏡で工事を見守ったジョン・ローブグリンの息子のことを思いつつ、ブルックリン・ブリッジを渡ったりする。そのゴースト・ハンティングに同行してくれたのは、奇妙な超短編『一人の男が飛行機から飛び降りる』の著者、バリー・ユアグロー。いまのマンハッタンはプロヴィンシャルに見えるという彼のセリフからは、「特別な場所」だった時代が去り、一地方にすぎなくなったマンハッタンの亡霊が立ち上がってくるかのようだ。

少年時代の記憶を語り合ったポール・オースターとの対話や、オレゴンにいる兄の訪問記、来日したスチューアート・ダイベックを家の近くの町工場に案内するエピソードなど、後半部には著者の等身大の過去が見え隠れする。とりわけ、東京でサラリーマンを少ししたあとに、フリーターになって福生のハウスで共同生活し、25歳でバークレーに渡り、その後、ニューエイジのリゾート地であるオレゴンに移り住んでいまのそこに暮らしている兄との対面は強く印象に残った。

ピッピー世代のおしっぽのあたりにひっかかって日本を脱出した兄と、トランジスターラジオを聴きながら翻訳していた中学二年のころと基本的には変わらない日々を送っている弟。兄弟関係が逆転したようなふたりの生き方には、明らかに時代の影が映り込んでいる。いろんなものから自由なつもりでいても、人は無意識のうちに時代を背負って生きているのだ。

タイトルの「ケンブリッジ・サーカス」はロンドンの地名だが、サーカスと聞けば円形広場よりも曲芸が思い浮かぶし、しかも本の表紙には鳩が青空にむかって飛び立つ写真が載っている。金曜までの瑣末な時間の流れから離陸するにはもってこいな気がして手にしたのだったが、予想したとおり、さまざまな想念がサーチライトのように頭のなかを照らし、眠っていたわたし自身の記憶をつつき起こした。


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