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『話す写真』畠山直哉(小学館)

話す写真

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「文化度ゼロ」の地点にむかわせる写真の力

日本の写真家が、国外でも積極的に活動するようになったのは、90年代半ばくらいからだろうか。それ以前にも展示の機会はあったが、写真家自らが意識してそれをおこなうようになったのはそのころからだと思う。

畠山直哉はその世代を代表する写真家のひとりである。2003年にヒューストン美術館で開催された「日本写真の歴史」展のシンポジウムで彼が講演したことも、それを裏付けているだろう。このとき彼は英語でプレゼンテーションしたが、そのこともインターナショナルな場面で発言できる写真家であるのを印象づけたはずだ。

その畠山がはじめて写真について言葉で語った本を出した。これまで行った講演やトークに手を入れたもので内容は多岐にわたっているが、話がそれると「それました」と修正するところに、いかにも自問自答の人らしい律義さがでている。だが、写真を語ろうとすると、写真以外のものに話が飛んでしまうのは写真の宿命と言えるだろう。

写真には人の認識している以上のものを写し出してしまう性格がある。そうした本質を言葉で論じようとすれば話題は発展せざるを得ないのであり、そこに写真の、そして写真家の魅力的な一面があるのだ。

「僕にとって、この写真は、一言で言うなら世界を知るためにあります」。石灰石鉱山を爆破した「Blast」シリーズの1点について彼はそう語るが、この言葉は「この写真」の「この」を取っても成立するだろう。世界を知るために写真を撮る。認識できていないことを認識するために撮る。あるいはそれまでの概念をぶち壊し、新たな認識を得るために撮る。彼の写真への態度は人間を外側から見ようとする視線に貫かれている。

一枚の写真だけでは謎として留まる。だが、それを連続して生産すると謎が意味に変化し、ひとつの「語」のように見えてくる。そしてその「語」がさらに複数連ねられれば、「文」のようなものになる。最初のワンカットからシリーズが生まれる過程を述べたこの言葉は、彼の写真実践をとてもうまく言い表していると思う。

私たちは言葉を持たずに生まれ、成長するにつれてそれを獲得し、自分をとりまく世界を認識するようになる。まずは家庭があり、それが学校になり、社会になり、住んでいる市町村になり、日本になり、世界になり、地球へと広がっていく。さまざまな概念を吸収し、歴史を学び、それらが総合された文化を理解するようになる。写真と関わるということは、生命活動の過程を最初からもう一度やり直すようなものなのだ。

「それぞれの人生を通じて身に付けた文化資本」や「コミュニケーションを可能にしているような、共同体内の精神的土台」などがゼロになった地点に立ち返ろうとするのが自分の写真だ、と彼は言うが、実際に写真を撮ってみるとこの感覚はよくわかる。それまで自分を縛っていたものから解放される快感がたしかにある。だが彼はこうも言う。写真の機械的な性質がどことなく不気味な、非人間的なものに思えることがあると。

つまり写真の快感や楽しさのなかに、「非人間性」にむかわせる何かがあるということだ。これはどういうことだろうか。写真に写るのは光だけで、物の内面は写らない。リアリズム絵画が目指した「壺の中の空気を描く」というのような極意の対極に写真の本領がある。このすべての事物を光に還元してしまう写真の機械的な側面を意識すればするほど、世界の意味がほどけて始原に逆戻りすることになるのだ。

畠山は写真家協会の年度賞を、水中写真家の中村征夫と報道写真家の広河隆一とともに受賞しときのことに触れ、その奇妙さについて考える。バラバラの写真を撮る3人が「写真家」として括られれる不思議。写す対象がちがえば、表象される世界に大きな差が生じる。写真家をつなげているのは思想や精神のようでいて、実は単に写真に使われる道具や素材だけなのではないか。写真に思想があるなら、それは素材が形成した思想なのではないか、と問うのである。

おもしろい指摘だ。私のように写真家を外側から見ている者は、彼らのなかにほかの人種との明らかなちがいを見いだすことが少なくない。自意識の壁を一瞬にして飛び越えしまう力と言ったらいいのか、目の前で起きていることに向かっていく能力と言ったらいいのか、何か物書きなどとはちがう世界への関わり方をする。それは肉体化された思想であり精神であるようにも見える。

それは畠山の言うように、写真の「素材」がもたらしたものなのだろう。「文化度ゼロ」の地点にむかわせるものが写真装置のなかにあるのだ。人間が長い歴史の過程で身に付けてきたものを一旦脱ぎ捨て吟味したいという衝動を、写真が植付けたのだった。

畠山は写真の魅力を「人間性=心」ではなく「非人間性=もの」のほうに置き、科学的な態度で写真に対する。この科学とは実験を通して結果を数値化する近代科学のことではなく、世界へのまなざしや考え方を探求するフィロソフィーとして科学、19世紀的な自然学のことだ。写真の思想とは、この19世紀の科学的な世界観と密接な関係にあり、自分はそこに半身を残しながら活動している者だと自己分析する。

この世には写真になりにくいものが存在する。ものの名前、概念、人の意識や心の内面などは、物理世界に属するものではゆえに(光ではないゆえに)写真ではとらえられない。彼のこの言い分は写真の原理にそった正論である。だが写真がややこしいのはその先なのではないか。写真を見て心や魂を受け取る人がいる。魂など写っていないにも関わらず、それを感じてしまう人がいる。遺影や心霊写真がいい例だろう。

物質となった写真のみを取りあげるのが不可能で、かならずそれを見るという行為とワンセットになっている点に写真の困難さがあるのだ。写真を見て人が何を感じるかは何者もコントロールできない。まさにそこが写真家を苛立たせる点だと思うが、私のような門外漢にはそこが興味深い。非人間的な脱意味の方向にむかわせる性質を持ちながらも、人間の不可解さと無縁でいることができないのだ。このこのぐちゃぐちゃした沼のような状態に写真の科学を超えた独自性があるし、現代における写真の意義もまさにその点にあるような気がする。

そうした写真の側面は、写真家よりもむしろ言葉の人間がなすべき作業なのかもしれない。写真の世界は奥深く、先が知れず、存在そのものが謎めいている。それは人間の謎そのものでもあるようにも思える。


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